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2005年12月27日火曜日

自分の為に

色々と悩み始める前に



自分の為に、きちんと、泣いてあげていますか?



自分の為に、きちんと、喜んであげていますか?





そうしてみると、もしかしたら、


もう、悩み込む必要はなくなっているかもしれません・・・・

2005年11月26日土曜日

あなたは「あなた」

心に関わるホームページを色々と見ていました。

そこで感じたことなんですが、

自分自身に、「世に出回っている呼び方」をあてはめてしまっている人が、結構多いということを改めて感じました。


私は、境界性人格障害です。

私は、ニートです。

私は、リストカッターです。

私は、~~~です。


私も、昔、すごく苦しんでいる時に、

苦しみの原因を探す中で、一つの呼び方に行き当たった事があります。


「私は、『境界性人格障害』です。」


自分にその言葉が当てはまったと感じたとき、

私は、なんとも言えない気持ちになった事を覚えています。


自分の人生を諦めなければならないように思えてしまい、

寂しさと悲しさに包まれた「絶望感」のようなものに押しつぶされてしまいそうになりました。


「俗に使われる言葉」には、『本当の望み』を諦めさせてしまう魔力があります。


心の闇から抜け出した今、私は、強くあなたに伝えたい。


あなたは、境界性人格障害ではありません。

あなたは、ニートではありません。

あなたは、リストカッターではありません。

あなたは、俗に言われる「~~~」ではありません。

あなたは「あなた」なのです!


だから、あなたの願いは叶います。


「俗に使われている言葉」を手放した時、

諦めようとしていた希望を思い出してしまって、

苦しいと感じることがあるかもしれません。


でも、その希望を、決して諦めないで下さい。

その希望に耳を傾けてくれる誰かを探して、そして、伝えてください。

その苦しさに耳を傾けてくれる誰かを探して、そして、伝えてください。

そして、自分自身が、本当の心の声に、耳を傾けてあげてください。

(もし、あなたが人間不信に陥っていたら、少しの間だけ専門家の助けを借りてください。)


そんな人との出会いは、あなたの希望を現実のものにする事を、きっと手伝ってくれると信じています。

だから、自分のことをそんな風に呼ばないで・・・

私がお願いする事ではないけれど、

もう一度、勇気を出して、あなたの希望を思い出してください!


だって、あなたも、幸せになれるのだから・・・

2005年11月11日金曜日

私の密かな主張

r私の密かな思いを、ちょっと、主張してみたくなりました^_^;

私は、ホームページやブログに沢山の文章を書かせて頂いていますが、

その文章で密かに主張している事があります。


たぶん、文章を読まれても、気付かない方が多いだろうと思います。


なぜなら、それを文章には、書いていないからです!?


私の書いた全ての文章を読んで頂いても、

クライアントという言葉を見つけることが出来ないと思います。


そして、今回使うのが、恐らく、最初で最後になると思います。


ひとりの人として、ひとりの人と関わりたい


私の密かな思いでした。

2005年11月5日土曜日

メルマガ(創刊号)を発行しました!

メールマガジン「読むカウンセリング」の創刊号を11月5日に発行しました。

発行部数は85部でした。

読者登録した頂いた方、ありがとうございました。

バックナンバーはピュアハートカウンセリングメルマガ(バックナンバー)にてご覧頂けます。


【メールマガジン編集後記】

メールマガジンの創刊号を発行するに当たって、書く内容についてかなり悩みました。

そして、細かなところの説明を始める前に、まず、悩みの中でも、解決できないと感じてしまう悩みの イメージをつかんでいただいた方が良いのではないかという結論に至り、今回の内容から始める事にしました。


準備号の説明を読んで下さっていた方は、もしか したら、そこから期待して頂いていた内容とはかなり離れたものに感じられた方も多いかもしれないと思います。

でも、今回のメルマガを書き終えて、大事な部 分を結構上手く表現できたと自己満足しています。


【例え話】と【解説】の2部に分かれているのですが、【例え話】の部分を何回も読んで頂けると、きっと、 悩みから解放されたり、悩んでいる人の事を理解したりする為の、何かヒントのようなものを感じて頂けるのではないかと期待しています。


メールマガジン創刊号配信から22時間後に、読者数を確認したところ、2名減少していたので、ちょっと不安を感じる部分もあるのですが、皆さんの声を聞きながら、挫けずに前に進んでいきたいと考えていますので、これからも、どうぞよろしくお願いします。

2005年10月31日月曜日

子供の気持ち

今日は、他サイトに投稿していたコラムの最終の原稿を書き上げました。



「私が、子育てで最も重要と考えていること」について少し書いたのですが、

そ のコラムを書き終えて、「子供の気持ち」に関連したことを少し書きたいと思いました。


具体的な要点ははっきりしないかもしれませんが、

何かを感じて頂けた らと思います。


【子供の気持ち】


優しいお母さんは好き、怖いお母さんは嫌い

優しいお父さんは好き、怖いお父さんは嫌い


お母さんが怒っているときはは、優しいお母さんに戻って欲しいと望み

お父さんが怒っているときには、優しいお父さんに戻って欲しいと望む


口では、「お父さんのことが嫌い」と言っていても、心の底では願っている

お父さんの事を好きになりたい、大好きなお父さんであって欲しい


口では、「お母さんのことが嫌い」と言っていても、心の底では願っている

お母さんの事を好きになりたい、大好きなお母さんであって欲しい



そんな子供の気持ちに気付けたとき、


もう少しだけ優しいお父さん、もう少しだけ優しいお母さんになれるかもしれない

子供がお父さんと仲良くなるために、何か手伝ってあげられることに気付けるかもしれない

子供がお母さんと仲良くなるために、何か手伝ってあげられることに気付けるかもしれない


子供には、自分では気付いていなくても、決して逃れることが出来ない欲求がある


お父さんと仲良くしていたい、そして、お父さんに愛されていると感じていたい

お母さんと仲良くしていたい、そして、お母さんに愛されていると感じていたい


子供がどのように愛して欲しいと思っているかを知っているだろうか?


その時々で変わる『子供が求める愛の形』に、ちゃんと気付けているだろうか?

2005年10月24日月曜日

メールマガジンを発行します!

カウンセラー検索サイトが発行するメールマガジンへのコラムの投稿がひと段落しましたので、

以前から考えていたピュアハートカウンセリング独自のメールマガジンの発行に

取り組む事にしました。


メルマガの名称は、『読むカウンセリング』にしました。


情報発信者として、このブログ「読むカウンセリング」と、

メールマガジン「読むカウンセリング」をどのように活用していくかは、

まだ、はっきりとは決められずにいますが、

このブログ同様、読んで頂ける方のお役に立てることを願っています。


どうぞ、よろしくお願いします。


ちなみに、カウンセラー検索サイト(こころ相談.com)へ投稿していたコラムの内容は、

ピュアハートカウンセリングのホームページのメールマガジンのページで

バックナンバーを管理しておりますので、

もし、興味のある方は、見てみてください。


これから発行するメルマガのバックナンバーは、

ピュアハートカウンセリングのホームページのメルマガ(バックナンバー)の方に保存していく予定にしています。

2005年10月14日金曜日

何から逃げる?

今回は、『逃げる』『立ち向かう』という言葉に関係する部分について、

少し考えてみたいと思います。


例え話を少し書きます。


例えば、あなたに、とても苦手と感じてしまう相手が居たとします。

あなたは、道を歩いていました。

すると、その苦手な相手が、遥か前方からあなたの 方に向かってくることに、あなたは気付きました。

しかし、相手は、まだ、あなたには気付いていません。

その人との距離が近づくにつれて、『イヤ』という感 覚が、だんだんと大きくなって、見付けた脇道へ逃げ込み、少しホッとしました。


■さて、この時、あなたは、一体何から逃げたのだと思いますか?

映像としては、『苦手な相手』、つまり、『苦手な対象』から逃げた、というように理解できるかもしれません。

また、『苦手な相手と出会うことによって起こる状況から逃げた』と理解する事も出来るかもしれません。

でも、本当のところは、そうではないのだと思います。


■「苦手と感じている相手を見ることによって引き起こされた『自分自身の中のイヤな感じ』から逃げようとした」

ということが、正しい表現ではないかと考えています。

つまり、自分自身の気持ちから逃げようとしていると いうことです。

でも、自分が自分である限り、当然ながら、自分自身から逃げることができるはずはありません。

ですから、その対象から逃げても逃げても、気 持ちが晴れないのは当然のことなのかもしれません。

もし、いくら苦手な対象から逃げ回ってみても、スッキリしない感覚が残ってしまうところがあるとした ら、このような状況に陥ってしまっている事を疑ってみる必要があるかもしれません。


■では、逃げない為には、どうしたら良いと思いますか?

脇道にそれずに、苦手な相手の方へ歩いて行けば良いのでしょうか?

それは、慣れや新しい気づきのチャンスになるという面があるので、一つの方法です。

ただ、「その前の前提」に気付いていなければ、自分の気持ちにフタをしているだけになってしまう恐れがあると思います。


「その前の前提」、それは、で、自分の気持ちとは向き合うとすることだと考えています。

向き合うというと、ネガティブな感情に叱咤激励してしまうことがあるかもしれませんが、この場合は、そうではなく、自分の気持ちを否定せずに受け入れること事を言っています。

「歩いていきたくない」と感じているのだから、歩いていきたくないのです。

「歩いていけない自分は、心が弱い」などという考えは、一旦、脇において、自分の自然な感情を、それがネガティブなものであっても肯定することで、ようやく、自然な自分を取り戻す為のスタートラインに立てるのだと思います。

ネガティブな感情の裏には、必ず、あなたの本当の希望が隠されています。

だから、ネガティブな感情を肯定しなければ、本当の希望に気づくことが出来ないのです。

その希望は、無意識のところで諦めてしまっていることがとても多いので、気付く事は少し難しいかもしれません。

でも、それを見つけることが出来た時、その希望を実現する為の具体的な方法を考え、そして、それを叶える事につながっていくのだと思います。

自分の心の中の色々な気持ち(『逃げたい自分』と『希望を持った自分』・・・)が、自分の心の中でお互いを理解し合って、それぞれの気持ちを大切にする答えを探そうと協力し合う、それが、正しい悩み方のイメージなのかもしれません。

2005年9月15日木曜日

自分が変わる ? 相手が変わる ?

人間関係の悩みについて考える時に、

「相手を変える事が難しいから、まず、自分が変わらなければならない」

というようなフレーズを、しばしば、耳にしたことがあるのではないかと思います。


この意味は、実は、2つあると考えています。

その事について、今回は、ご説明しようと思います。



(その1)因果の法則

原因を追究しようとすると、「まず、思い当たること」が原因のように思えてしまいます。

ところが、その原因も、実は、「その前に起こった他の原因の結果に 過ぎない」という側面を持っています。

そして、その原因の原因は・・・・、というように延々とさかのぼってしまい、何かを『真の原因』として切り出すこと は、不可能に近いのです。

そこで、原因の追究を止めて、その因果の法則から抜け出そうとする試みが、「相手を変えようとせずに、自分が変わる」ということ の意味するところだろうと思います。

つまり、「自分が変わらなければならない」ではなく、「自分が変わるところから始めてみる」という手法について言っているのだろうと思います。

自分が変わった事が原因となって、その後に起こる結果も、これまでのパターンとは変わり始める。

つまり、短い期間だけ、過去から続いていた悪い因果を断ち切る努力をすれば、特に自分が変わったり、他人が変わったりしなくても、お互いにとって良い結果が自然に得られるサイクルに移行していくということなのだろうと思います。



(その2)「自分も、相手も、変わらなくて良い」ということを受け入れることができるように変わる
この内容を、正確にお伝えすることはとても難しいと感じているのですが、何かが伝わる事を願って説明をさせて頂きます。

(その1)で説明させていただいたことが、「相手を変えようとせずに、自分が変わる」の真の意味だと私は認識しているのですが、誤って、次のような意味に捉えてしまう人は多いような気がします。

■自分の悪いところを見つけて、それを直すこと

■相手が変わらないから、自分が我慢できるようになること

そう考えてしまうと、苦しい気持ちになってしまう事は多いかもしれないと思います。

詳しい説明はここでは省きますが、相手の人に悪意が無いとしたら、この世界には、「自分も、相手も、変わらなくて良い」ということが真実としてあると思っています。

つまり、
「相手が変わらない = 自分が変わらなければならない」

とか、

「自分が正しい = 相手が変わらなければならない」

などというような二元論的な結論は、本当の答えではないということです。


相手を責めるのは間違っています。

そして、また、自分を責めるのも間違っているのです。

それでは、誰が、変われと言っているのでしょう? 

何が、変われと言っているのでしょう?

それは、あなたではありません。


でも、その答えは、あなたの中にあるのです。


その答えに気付く事によって、一つの価値観の縛りから開放されていくきっかけになるのだろうと思います。

何かを感じていただければと思います。

【補足】

悪意についてですが、それが、真の悪意かどうかは、判断が難しいところだとは思います。

悪意と感じられることの大部分は、そこに隠されている本当の気持ちを正直に表現すれば、相手に悪意を感じさせずに済むような事のような気がしています。


■本当の気持ちを素直に表現する

■表現された素直な気持ちは、どれもが、大切に扱われるに値するものとして受けとめる


これが、社会の共通認識になった時、みんなが幸せになれる社会になるのかもしれません。

2005年9月11日日曜日

ふと気付いたこと

今朝5時ごろに、内容はさっぱり覚えていないのですが、

何かの夢を見ていて、目が覚めました。


そして、何となく自分の過去を振り返っていました。

たぶん、そんな気分にさせる夢だったのだろうと思います。


「20代の時は、本当に辛かったなぁ~」

「あんなに、辛かったのに、良く頑張ったよなぁ~~」

「もっと、早く、誰かに相談していたら良かったのになぁ~」


そんな事を、ボーっと思っていて、自分の中での一つの核心に気が付きました。


もしかしたら、今、何かに苦しんでいる人にも、

参考になるかもしれないと思うので、忘れないうちに書いておこうと思います。



・自分が本当に苦しい時には、誰も、助けてくれない。

・苦しみの原因を解決する事は出来ない。


そんな事を、過去の経験から、

無意識に固く信じていたということに、気が付きました。


そう信じていると、苦しいと感じたときには、

自分ひとりで、ただ、耐えるしかありません。


私は、小さい頃から、ずっと、苦しいときは、

決まって、何 も言えないような気分を感じ、

何も言えないような気分を感じるから、

何も言えずに、ただ、耐えていたような気がします。


(今なら、過去のいろいろな場面 で、「どのように助けて欲しかったのか」を、その頃の私の代わりに言うことが出来ると思います。)


でも、耐えているだけでは、

運が良ければ、周りの状況の変化によって、楽になることは、あるかも知れませんが、

周りの状況の変化によって、また、苦しくなってしまいます。


(一緒にいる相手によって、自分が変わってしまうというのも、同様の状態かもしれません。)


『気分』、それは、過去の経験によって学習したことを、

効率良く行う為の、人間の一つの能力だと考えています。


でも、学習した事は、学習した環境でしか役に立たないのです。


私の場合、恐らく、ずっと小さい頃に、「助けて欲しい」と言った時に、

助けようとしてもらえなかったり、逆に、怒られたりしたのだろうと思います。

 だから、「助けて欲しい」と言ったり、感じたりすることで、

辛い思いをしなくても良いように、その『気分』が、私を守ってくれていたのだろうと思います。


そして、そのことによって、「助けて欲しい」という気持ちが、

ほんとうに長い間、無意味に封印されてしまっていたのです。


理由も分からず、「生きることが辛い」に似た感覚があるとき、そんな封印は必ず存在しています。


でも、その封印は、必ず、はずす事が出来ます。


だから、苦しみから抜け出せないでいる人は、次の言葉は真実だと受け止めてください。


●助けて欲しいと言えば、助けてくれる人は、必ずいます

●苦しみの原因は、必ず、解決する事が出来ます

●だから、必ず、苦しみから解放されます

あんなに辛く苦しい状態から抜け出した男が言うんだから、間違いありません。

これだけは、固く信じてください。

絶対に、信じてください。

それを、信じて、それからどうするのか。


そのヒントが、このブログの中に書いているつもりですし、

これからも、書いていきたいと思っています。

2005年8月11日木曜日

オール・オア・ナッシング

今日は、私の知人のカウンセラーのブログを訪れてみました。

心理 カウンセリングコラム16 オール・オア・ナッシング

その内容に刺激を頂き、関連した事を少し書いてみようかと思います。


「オール・オア・ナッシング」をもう少し日本語的にすると、


・物事の道理が少しでも崩れていると感じると、それを受け入れる事が難しい

・完全でなければ満足できない。

・不完全だと、耐え難い不満足感に見舞われる


というような表現になると思います。


「白か黒かの両極の評価しかなく、

間のグレーな部分が認められない」という風に表現される事もあります。


でも、その時に考える完璧完全が、

実は、グレーだったりするのです。

(今回は、詳細の説明は省略します)


ですから、もし、「全てか無か的な思考」の傾向があることで、人間関係や生活に不自由さを感じているとしたら、

○どうして自分は、グレーな部分を、白(完全)と考えるのだろう?

○どうして自分は、グレーな部分を、黒(不完全)と考えるのだろう?

と考えてみると、これまでとは違った見方が出来るかもしれないと思います。


他にも沢山書きたい事が浮かんできているのですが、

また、別の機会に書きたいと思います。

(今回は、トラックバックしたかっただけですので・・・ (^_^;) )

2005年8月9日火曜日

家庭にあるかもしれない深刻な問題

人は、『社会』というものを形成して生活しているところから考えると、

サルや馬たちと同じように、生まれながらにして『群れ』を作りたいという習性(気持ち)を持っている動物なのだろうと思います。


そして、他者が「自分と同じ空間」と感じる領域に存在すると、

無意識にその心理が本能として働いて、

何らかのコミュニケーションを通して関係性を築きたくなるのが、

『人の性(さが)』なのではないかと考えています。


そんな事を踏まえて、今回は親子関係を中心に、

私なりに考えてみたい思います。


現代の日本では、サラリーマンの父親は、

どうしても、家庭において不在になってしまいがちなところがあります。


それは、父親の問題というよりは、

今 の日本社会のシステムによって引き起こされているという見方も出来るかもしれません。


そんな状況の中で、父親と家族(特に父親と子供)とのコミュニケー ションに何らかの問題が発生しまっても、そんなに不思議ではないように感じます。

また、その問題が、社会の仕組みにより引き起こされているとしたら、父親 だけの努力で解決しようとするのは、とても困難なことかもしれません。

ですから、まず、家族の全員が、今の日本社会、或いは、近代社会においては、家庭問題が発生しやすい基盤が、家庭以外の要因によって、既に出来上がってしまっているということを理解し、次に、それを回避するために、お互いがどのようなことで協力し合えるのかという意識を持とうとすることが大切なのです。


■現代の日本で、『家族の全員にとって居心地の良い家庭』を作っていくために


現代社会では、子供にとって、父親とのコミュニケーションは、日常ではなく、非日常のことになってしまっています。

(朝と夜や休日といった限られた時間、すなわち、子供とっての非日常にしか、父親は存在しないということです。)


ですから、極論すると、父親と子供の関係は、親子になった時点で、既に、社会のシステムによって破壊されているといえ、喧嘩しているのと同じような状態になっているのではないかと感じています。

(もちろん、そんな中で、良好な関係を築き上げておられる家庭が沢山あるのということも事実です。)


ですから、家庭において最優先されるべき課題は、『父親と子供のコミュニケーションの修復』であると私は考えています。

家族の間には、家という空間を共有することから、前に説明した「コミュニケーションを持ちたい」という気持ちは常に働いているだろうと考えています。

ですから、コミュニケーションが壊れている状態においては、本人たちが意識できていなくとも、壊れたコミュニケーションを修復したい、つまり、仲直りしたいと願っているのだと思います。


そこで重要な役割を果たすのが母親の存在なのです。

多くの子供たちにとって、母親は、非日常ではなく、日常の存在です。

母親は、子供たちの気持ちの中では、一番身近で信用できる存在です。

その子の母親であるという事実は、子供にとって、何者にも勝る偉大な存在であるこということを意味するのです。

そんな位置づけである母親だからこそ、仲直りをしたがっている父親と子供に対して、協力してあげられることは、沢山あるだろうと思います。


■愚痴

母親が話す「母親の父親に対する感情」は、良いものであれ悪いものであれ、多くの場合、子供は正しい事として受け止めてしまいがちです。

ですから、母親は、ただの愚痴のつもりでも、仲直りの手伝いをしないままに、子供に父親に対する不満を繰り返し話していると、それが、父親の真実として子供の心に刻まれてしまうこ とがあります。

そして、子供は、自分の「本当はお父さんと仲良くなりたい」という気持ちに気付けないままに、お母さんと同じように、お父さんの悪口を言う ようになってしまいます。

お父さんの悪口を言って、お父さんを悪者にすることによって、「自分が苦しいのは、お父さんのせいだ」とさえ思わせてしまい、自 分の本当の気持ちが、ますます分からなくなってしまうのです。


母親の不満や父親の不満はどうであれ、子供は、「両親が大好きなお父さんと大好きなお母さんでいて欲しい」と願っているということを、父親も母親も肝に銘じておく必要があると思います。


愚痴を言うと、少しはストレスの解消が出来るかもしれませんが、現実が望ましく変化することは、ほとんどありません。

ですから、

○母親は愚痴るよりも、実際に満足する為の方法を考えようとすることが、自分の為にも、子供の為にも大切なことなのです。

○父親は、母親が家庭において満足を感じられるようなコミュニケーションにつとめること、そして、もし、不満 を感じていることを知ったら、その不満を解消する為に協力しようとすることが大切だと思います。それは、「母親のため、子供のため」ということだけではな く、自分にとって、家庭がより心地の良い場所になっていくことに、きっと、つながるだろうと思います。



■協力という名の非協力

父親の存在が非日常であることから、父親と空間を共にする時に、子供が居心地の悪さを感じ、父親と距離をとりたがることがあるかもしれませません。

ですが、そこで、母親が、子供が父親を避けようとすることに加担してしまうと、子供は意識できていないけれど、心の中に確かに存在する『仲直りしたい』と いう気持ちを、無視してしまうことになってしまいます。

また、父親との間に感じる居心地の悪さと向き合わないで放置する事も、正当化してしまいます。


その時は、母親の協力で、父親との距離が取れたとしても、「父親との間に感じる居心地の悪さ」という子供の気持ちが、根本的に解決される事はありません。

居心地の悪さを解消する為には、自分の本当の気持ちに向き合い、それを実現する方法を考えるしかないのです。

しかし、その本当の気持ちと向き合わせてもらえなかったことその居心地の悪さが正当化されてしまったことによって、いつしか、本人が意識しないところで、『自分の人生には、モヤモヤした解決することができない苦しみがある』と信じてしまうことにつながる恐れがあるのです。


これは、とても深刻なことです。


その後の子供の人生において、自分の気持ちを大切にすることで解決できそうな、ちょっとした問題によるストレスでも、そのモヤモヤした感覚に組み込まれてしまうので、自分の本当の気持ちと向き合うことが出来なくなってしまい、自分の本当の気持ちが分からない自分の願いが叶うことは無いと いうことを感じるようになる心配があります。


そして、問題と感じる事に直面するたびに、モヤモヤとした感覚が勝手に増幅してしまう心のパターンが出来てし まいます。

また、何も問題が無い時でさえ、そのモヤモヤは、心に重くのしかかるようになり、いつも、それに押しつぶされないように踏ん張っていなければな らないような状態につながってしまうかもしれません。

そんな苦しい人生の種を、子供に与えてしまう恐れがあるのです。


また、本当の気持ちは、「仲直りしたい」、「仲直りできない苦しみから助けて欲しい」と願っているのに、逆の方向に協力されることは、それが親の善 意の気持ちからであったとしても、苦しみという心の傷に塩を擦り込むようなことになってしまう恐れがあるのです。

そして、子供のそんな経験は、自分が苦しい時に、そこから抜け出すために協力してくれる人は居ないというような、孤独感人間不信感にもつながってしまうのではないかとも考えています。


■結論

唐突かもしれませんが、子供の幸せな人生を思うのなら、何はともあれ、夫婦仲睦まじくなのだろうと思います。

もし、あなたの中に、「子供は私の味方」に近い感覚があるとしたら、黄色信号です。家族のコミュニケーションについて、もう一度、ゆっくりと見つめ直そうとすることは大切かもしれません。

2005年8月8日月曜日

親の「慣れ」とその影響

最初の子供を育てるということは、

親にとっては、「初めての驚き」の連続だろうと思います。


そして、2人目、3人目・・・となってくると、

いろいろな意味で、慣れてくるのは、普通のことだろうと思います。


この「驚き」と「慣れ」について、少し考えてみようと思います。

・新しく経験することとして、ちょっと思いつくことを、少し書いてみます。


1.喜びや驚き

 ・子供が存在するだけで感じることの出来る幸福感

 ・子供が何かが初めて出来たときの喜び・驚き

2.不安や苦しみ

 ・子育ての不安

 ・子供が自分の思い通りに行動してくれない事によるストレス

 ・自分の時間を大切に出来ないような感覚

3.その他

 ・親が発揮して欲しいと思う能力を子供に感じたときの満足感や、その逆の不満足感

 ・「正しい子育て」ということを考えた時に感じる不安

 ・他の子供と比較する事で感じる優越感や劣等感


他にもいろいろあると思います。

そんないろいろな事に慣れていっているのです。


1.喜びや驚き

親は、第一子を育てるときは、

・どのタイミングで何が出来るようになるのだろう?

・うちの子供は、本当に、それができるようになるのだろうか?

などという気持ちの中で、子供を見守っているのではないでしょうか。

そんな気持ちの中で、子供を見つめる視線は熱く、また、それができるようになったとき の喜びも大きいものです。

でも、第一子を育てる中で、子供がどのように成長していくのかが、何となく分かってしまうところがあると思います。

すると、第二 子以降は、「もうそろ~ができるだろう」なんて予測がついてしまうので、どうしても、その喜びには差が出来てしまうように思います。


例えば、弟が、「ボクが自転車に乗れるようになった事、お父さんやお母さんは嬉しくないんだ・・・」なんて言ったとします。

親は、喜んでいるつもり なので、「何言ってるの、嬉しいわよ(微笑)」と言うかもしれません。

もしかしたら、「お兄ちゃんが出来るようになった時も、こんな感じに喜んだはずだけ どなぁ・・・」などと、過去の自分の反応を振り返ることがあるかもしれません。


でも、これは、親の論理な のだろうと思います。

弟は、お兄ちゃんと同じ時を生きています。

ですから、このような場面で、親が、お兄ちゃんに対する反応を振り返ることは、実は、あま り意味がないのかもしれません。

もしかしたら、最近、お兄ちゃんが、水泳で10メートル泳げるようになって、親が大喜びしたのを見ていたのかもしれませ ん。

何が言いたいのかというと、弟は、「今、お兄ちゃんが貰っている」と感じている親の喜びと、自分が感じている親の喜びを比較しているのだろうということです。


親が意図していなくても、親にとってはただの『慣れ』も、子供には、『親の愛情の差』として受けとめられてしまう恐れがあるということを理解しておく事は、とても大切だと考えます。


まだ、慣れていない新鮮な事は、いろいろと心に飛び込んでくるだろうと思います。

そして、慣れるにつれて、気付かずに見逃している事も増え、また、 驚きも少なくなっていくのは、自然なことで、仕方ないと思います。そこを、下手に努力でカバーしようとすると、芝居がかってしまってしまい、それを見抜か れて、違う誤解を与えてしまうかもしれません。


ですから、

・いろいろな事に気付いてあげようとすること

・気づいた事には、自然な反応を示そうとすること

・もし、子供が物足りなさのような事を表現したら、親の論理だけで自分の反応を反省したり言い訳したりしようせずに、「子供が何を見て、何を感じていることが、その感覚につながっているのだろう?」というその時々の子供の気持ちに寄り添ってあげようとすること

は、大切なのかもしれません。


親にとっての『ただの慣れ』でしかないことなのに、子供が大人になった後も苦しみ抜いてしまうほどの心の傷を負わしてしまう事になるかもしれないということを深く認識しておく事が大切だと思います。


また、もし、自分自身に何か苦しい感覚があるとしたら、そんな事を考えながら、もう一度、自分のお父さんやお母さんとの関係を振り返ってみると、何かに気付くきっかけになるかもしれません。


すこし、長くなってしまいましたので、「2.不安や苦しみ」と「3.その他」についての詳細は、また、今度にします・・・、

2005年8月4日木曜日

話し方の癖の、もうひとつの解釈

もともと、人は、いろいろな事柄に対して理解したことを、

「他の人にも分かってもらいたい」と思ったときに、

『「自分が理解できた流れ」と同じような流れで話したい』

と思うのが自然なことで、

恐らく、全ての人に共通するスタートポイントではないかと考えています。


しかし、同じポイントからスタートしたはずなのに、

人それぞれ異なった現在の話し方に落ち着いているということについて、少し考えてみました。


そこには、「話し方を変化させざるを得ない事情があった」ということが関係しているのではないかと考えています。

言い方を変えれば、「過去のコミュ ニケーションがどのようなものだったかによって、話し方を変化させている」と表現できるかも知れません。

そう考えた時、もし、今のあなたが、話し方やコ ミュニケーションのことで悩んでいるとしたら、

・「今の自分の話し方やコミュニケーションが悪い」と自分自身を責める事よりも、

・まず、「これまでの自分は、どんな状況の中で、コミュニケーションをとろうと頑張ってきたのか」という自分自身の頑張りに気づいてあげようとすることが大切

と言えるのかもしれないと思っています。


【例】 (あくまでも、ほんの一例です)

■大きな声で話す 

普通の声で話しても聴いてもらえなかったが、大きな声で話すと聴いてもらえた


■ぶつぶつ小声で話す

自分の気持ちを言ったら、否定されたり、逆に、相手の考えを押し付けられる事が多かったが、自信なさそうに話すと、聴いてもらえる事が多かった


■単語でポイントだけを話す

何か話し始めても、話しの主導権を取り上げられ、続きの話をさせてもらえない事が多かったので、伝えたい事を早く言ってしまう必要があった


■なぜか相手の怒らせたり、傷付けたりするような事を言ってしまう

普通に話しても自分の気持ちを聴こうとしてもらえないのに、相手を怒らせたら時だけ自分と向き合ってもらうことができた



これらの例のように、なかなか自分の気持ちが伝わらない中でも、「何とか自分の気持ちを相手に伝えたい」と感じ生み出した、あなたが気持ちを伝えた かった相手に、気持ちを伝える為のとっても効率的な技なのだろうと思います。


つまり、あなたの努力の歴史が集約されていると言っても良いのかもしれませ ん。

そして、その頑張を認めてあげることが出来た時、「本当は、どのように話し、どのように聴いてもらいたいのだろう」ということに気付いたり、「自分 の本当の気持ちを、自分が話したいように慌てずに話しても大丈夫なのかもしれない」と疑い始めたりするきっかけになるかもしれません。

2005年7月1日金曜日

雨の日の動物

ブログの引越しにうつつを抜かしていたら、

本来の目的としている投稿が疎かになってしまいました(^_^;)


今回は、梅雨時なので、

「お天気と気分の関係」について、

考えてみたいと思います。


自然の中で過ごしている動物たちが、

雨の中を活発に活動しているところは、あまり見かけないような気がします。


これを人間が説明すると、「雨を避け て木陰にでも居るのだろう・・・」という具合になるのだろうと思いますが、言葉を持たない動物たちが、「雨だから、雨宿りをしよう」なんて考えて行動して いるとは思えません。

だから、恐らく、「言葉や考え以外」のところで、「雨を避ける」という行動をとっているのだろうと想像できます。


このとき、重要な役割を果たしているのが、

『気分』のような感覚なのだろうと想像しています。


もっと言うと、雨の日は動物たちは『うつ』になるのではないかということです。


気分が沈んで動く気がしないから、結果として、木陰で雨をしのいでいる。


そして、間違っても、「この雨の中でも、外に出て行って、何かをしなければならない」と考えることはないと思います。


雨の日に、平気で雨にうたられていると、きっと、風邪を引き、それを悪化させ、最悪、死に至る恐れまであると思います。


そう考えると、『気分』が、安全に生きることが出来るよう行動をコントロールしてくれているというこが出来るような気がします。


そして、天気に限らず、気分が沈んだ時には無理に動かないということは、当たり前のことのようなのかもしれません。


本来、人間も、この行動パターンを持ち合わせているのではないかという感じがします。


ところが、現代の人間社会(社会、地域、家庭・・・)は、それを否定する傾向があります。


その証拠に、気分が沈んだ人は、「気分が沈む事は良くない事だ」とか、「自分は弱い人間かもしれない・・・」などと、休んではいけないような錯覚を抱かされてしまっています。


体や心を休まなければならないところを、それに逆らって無理に動いてしまうと、もっと休まなければならない状態になってしまい、「何としても休ませ無ければならない」という働きのためにようと、気分はもっと沈んでいくのかもしれません。


「落ち込んでいてはダメ」「何もしないとダメ」「やる気が無いのはダメ」・・・、そんな今の社会の雰囲気が、うつを生み出し、うつを深めていくと いっても過言ではないような気がします。

うつを「うつ病」という病気として認識している事自体が、それを物語っているのかもしれません。


いつの日か、「疲れたり、気分が沈んだら、体と心が癒えるまで、堂々と休むことが出来る社会」になれば良いのにと思います。

しかし、社会の大きな流れを急に変えることは難しいのが現実なのかもしれません。


だったら、社会が悪いと考える前に、

まず、その第一歩として、

一番小さな社会の単位である家庭の意識を変えようとする事から、始めてみませんか?

疲れた家族、傷ついた家族を、堂々と休めるように、大きな社会から守ってあげようとしてみませんか?

2005年6月7日火曜日

子供の感情への対応

例えば、小さな子供が、お菓子を食べたがっている時、

親は、その日はお菓子を食べ過ぎているので、もう与えない方が良いと考えていたとします。




子供:お菓子が食べたい!


親 :今日は、もう、たくさん食べたから、あげられないのよ
   また、明日にしましょうね!




こんな会話で、納得する子供は恐らくいないのではないかと思います。そして、はじめのうちは、静かに言い聞かせようとすることができていても、泣き叫んで親の思い通りにならない子供にうんざりしてしまうことは多いのではないかと思います。


そんな時の親の対応として、大きく次の4つが考えられるように思います。


①怒鳴って、威圧することによって、子供を押さえつけようとする

②根負けして、お菓子を与える

③お互いの合意を取り付け、お菓子を少しだけ与える

③子供の感情を受け止める


①や②は、子供の気持ち、或いは、親の気持ちのどちらかが大切にされないので、良い解決方法ではないと思います。

(この辺のことは、別の機会に、じっくりとご説明したいと考えています。)


③は親の気持ちと子供の気持ちの両方が少しずつ大切にされるので、良い解決方法の一つではあると思いますが、小さい子供が相手だと、はじめの「少しだけでいい」という約束はどこかに行ってしまい、再び泣き叫び始めることも多いかもしれません。


④は、ちょっと良さそうなのですが、親の「自分の思い通りにさせたい」という気持ちが強いと、なかなか難しいことなのかもしれないと思います。


そんな時、次のように考えると、子供の感情を受け止めることがしやすくなるのではないかと考えるようになりました。



子供は、泣き叫ぶことで、自分の思い通りにしようとしているのではなく、自分の思い通りにならないことを、我慢しようとしている

(大人の感覚に、「我慢とは、黙って耐えること」というものがあるので、子供が泣き叫ぶ様子を、「我慢している」とは、なかなか思えないのだろうと思います。)


そう考えると、子供が「お菓子が食べたいーーっ!!」と泣け叫んでいても、

その子供を抱き上げて、

「そうだね、お菓子が食べたいのを我慢するのが辛いんだね、ヨシヨシ」

というように、子供の気持ちが収まるまで、

付き合ってあげやすくなるのではないかと思います。


と考えるようになった後で、少し困ってしまったことがありました。


それは、子供と一緒に歩いていて、子供が歩くのがイヤになり、

「抱っこしてく れ!」と泣き出したことです。


私は、腰が痛かったので、抱っこして歩きたくなくて、長い間、

子供を抱っこしないで泣かせてしまいました。


そして、結局、 抱っこして歩いて帰る事になったのですが、

これも後から考えると、抱っこして「歩きたくない」という気持ちを受け止めてあげて、

その後で、子供に歩いてく れるように頼んだら良かったのかもしれないと思いました。


これは、「抱っこ=抱っこして歩く」という感覚が私の中にあったことが、

子供の感情を受け止めて あげることの妨げになってしまったような気がします。


もし、子供が、ただ、「抱っこして欲しい」と、泣き叫んだら、「文句を言わずに、ただ、抱っこしてあげる」、それが、親の責任かもしれません。


(そんなことを考えながら、しばらく、過ごしてみようと思っています^_^;)

2005年6月1日水曜日

子育ての目標に関連して

前回の『子育ての目標』に関連して、

理解できそうなことを、少し書いてみたいと思います。

前回が予防の話としたら、今回はリカバリーの話です。


心が自立した状態だと、もし、何かを失敗したとしても、

・自分のあの時の感覚や感情が良くなかったのかもしれない

・自分のあの考え方が良くなかったのかもしれない

・自分のあの行動が良くなかったのかもしれない

というように、自分を振り返ることは、

きっと、より良い自分へと変化していくことを手伝ってくれるような気がします。


ところが、心が自立していない(自立させてもらえない)と、

自分が定まらない為に、過去の色々な経験を肥やしにして、


・自分を変えようとしても、変える基になる自分がないような感じがして

・変えたくても変えることができないから苦しくなって


どうしたら良いかが分からず、苦し紛れに、自分そのものが悪いというような結論を出さざるを得ない心境に追いやってしまうのかもしれないと思います。


また、そんなところから生じた「自分は変わらなければならない」という漠然とした感覚は、その人はもともと悪くないということを考えると、解決するものが無いのに、解決したい感覚だけ持っているという事になるのだろうと思います。

だから、今までと同じような、何かを解決しようとする取り組みを続けていては、そこから抜け出すことは難しいと言えるのかもしれません。


そこで、自分の根本を定めるということから、始めようとすることが必要だと考えています。

そして、その一歩として、自分の感覚や感情を心底信じること、特に、それがネガティブな感情であったとしても、その感情を信じ、きちんと向き合うことが大切なのだと思います。


例えば、「友達が妬ましい」と感じたとしても、「妬ましいなんて感じる自分はなんて心が狭いんだ・・・」と考えてしまっては、本当の気持ちを心の奥底へと追いやってしまいます。

「友達が妬ましい」、それは自分にとって確かな事なのです。


そんな自分の感情や感覚を、自分の中心にしっかりと据えて、「どうして、妬ましいと感じるのだろう???」と素直な気持ちで向き合えば、「自分も褒めてもらいたかったのに、友達だけが褒められて悔しかった」などというように、自分の「~して欲しくない」「~したくない」とか、もっと進んで、「~して欲しい」「~したい」という本当の気持と、きっと、出会うことが出来るだろうと私は信じています。


そして、出会えた自分の本当の気持ちを大切にする為に、自分に出来ることは何なのだろう?と考え始めた時、それは、幸せの世界を歩き始めた時なのかもしれません。

子育ての目標

子育ての目標に、

『社会で自立できる大人に育てること』

という気持ちを持たれている親御さんは多いと思います。


でも、『社会で自立する』って立派なスローガンを掲げてしまうと、

いざ、それを具体的に実践しようとした時に、

「それって、いったい、どんなことなのだろう???」

と困ってしまうことも多いのではないでしょうか?


そう考えてみると、「子育ての迷い」というのは、自分の子供に対する迷いではなく、実は、『社会で自立する』という言葉に対する自分自身の迷いであるのかもしれません。


『自立』という漠然とした言葉の呪縛から離れる為には、

まず、「心の自立」という部分を押さえておくことが大切だと考えています。

「心の自立」ということについては、

心理に関する話しの中で、しばしば出てくるので、一度は、聞いた事があるかもしれません。

【心の自立】
次の3つに責任を持てる状態を「自立している」と表現されることが多いです。
1.自分の感覚や感情 2.自分の思考  3.自分の行動

これだけでは、分かり難いと思うので、少し例を書いてみます。


○友達と喧嘩して、自分はスッキリしているにも関わらず、親が勝手に憤慨して友達の家に怒鳴り込んでしまっても、子供はそんな親の行動に責任は取れません。

(でも、結果として、友達からは、その責任を問われることになったりします。)


○友達と喧嘩して気持ちが治まらず、友達の家に怒鳴り込もうと考えていた時に、親が先に怒鳴り込んでしまっては、自分がした事にならず、やっぱりスッキリしません。

○大工さんになりたいと考えているのに、親の考えを押し付けられて大学に行っても、そこでの色々な出来事の責任は自分ではなく親にあるように思えてしまうかもしれません。



まとめると、「感覚や感情」、「思考」、「行動」の3つの内の、いずれか一つでも、他の人にとられてしまうと、心に満たされないような感覚や、誰かにコン トロールされているような感覚が残ってしまうのだろうと思います。

そして、そんな経験を繰り返していると、

そんな感覚は、世界観としてその人に大きくのし かかるようになり、


・自分の人生は、自分の力ではどうすることも出来ない

・自分の力では幸せになれない


という世界に自分自身を追いやってしまうようになるかもしれません。

そして、自分が幸せになれないと感じていると、

心の中は、「社会的な自立」どころの騒ぎではなくなって、

もしかしたら、「生きるか死ぬか」に匹敵するほどの悩みになってしまうかもしれません。


逆に、「自分の力で幸せになれそうな予感」さえあれば、

親がとやかく言わなくても、

子供は勝手に社会的に自立していくのではないかと思います。



最後に、3通りに書き方をして、終わりにしたいと思います。

【親が避けた方が良いと思われること】

1.子供の代わりに感じない/子供の感情や感覚を否定しない

2.子供の代わりに考えない/親の考えを押し付けない

3.子供の代わりに行動しない/行動できるチャンスを奪わない


【親にとっての心得】

1.子供が感じられるように助けようとする

2.子供が考えられるように助けようとする

3.子供が行動できるように助けようとする


簡単に言うと

親は、自分の感情や感覚や考えなどを押し付けずに、子供が必要とするときに、子供の話を、共感しながらじっくりと聴き、子供が自ら行動するところまで、ゆっくりと見守ってあげる

これに尽きるのではないかと、私は考えています。


【子供の心への影響】

1.親が子供の代わりに感じること

・自分は何かを感じていても、その感覚や感情を具体的に理解しようとせずに、他の人が何かを感じることを期待するようになることにつながるかもしれません。

・自分の感情や感覚よりも、相手の感情や感覚に目が向いてしまいがちになって、他人の感情や感覚ばかりを想像する(気にする)ようになるかもしれません。

・その結果、自分の感情や感覚を感じ難くなり、「自分自身が確かなものではない」という感覚を持つことにつながるかもしれません。


2.親が子供の代わりに考えること

・自分の気持ちを、自分が伝えようとしなくても、他人が勝手に汲みとって、考えてくれるということを期待するようになるかもしれません。

・自分の考えではなく、相手の考えを想像するようになるかもしれません。

・「考えても仕方がない」という「漠然とした諦めの感覚」をいつも身にまとってしまうことにつながるかもしれません。


3.親が子供の代わりに行動すること

・自分の気持ちや考えは、自分が伝えようとしなくても、他人が勝手に汲みとって行動してくれるということを期待するようになるかもしれません。

・「自分の力ではどうすることも出来ない」という無力感のような感覚につながり、自分で行動し難くなってしまうかもしれません。



これらによって、  

『子供』  ⇔ (子供が想像した相手) ⇔ 『相手』  

という構図を作ってしまうことがあります。


もう少し説明すると、

子供は、子供が想像した相手と対話している』、

相手は、子供が想像した自分自身と対話している(他者を通じた自問自答)』

ということになるのだと思います。


その結果、「本当の気持ち」と「本当の気持ち」の交流が阻害され、コミュニケーション不全の状態に陥ってしまうのです


これが、人間関係の悩み、或いは、人生の悩みの始まりの部分ではないかと、

私は考えています。


次回も、子育てに関連して、

「子供の感情への対応」という事について書いてみたいと思っています。


2005年5月26日木曜日

自分が無い

頂いたコメントをきっかけにして、

「自分が無い」というについて、一般論として少し考えてみたいと思います。


「自分が無い」という事について、コメントの中にも書いてくださっていましたが、

■自分が出せない(自分の意見が言えない)

ということが、まず一つ挙げられると思います。


そのような状態だと、他の人はその人の気持ちに触れることが出来ないので、

「その人の気持ちが分からない」と感じ、

そして、そのことを「自分が無い」と表現することがあるのではないかと思います。


そして、人から同じように「あなた、自分が無いわね」というような事を何回か言われると、

どうしても、「自分がないのかもしれない・・・」と、

錯覚させられてしまうこともあるかもしれないと思います。


この場合、『自分がある』と自分がわかっているから安心かというと、

他の人から「あなたは自分が無い」と言われるのは良い気持ちがしないと思いますし、

また、言いたいことが言えない辛さも、やっぱり感じるだろうと思います。


前置きがとても長くなってしまいましたが、もう一つ考えたことが、

■自分の気持ちが見えなくなっている

という場合があるのかもしれないと思いました。


右を向けば、左側は見え難くなり、左を向けば、

右側は見え難くなります。


これと同じように、意識の方向

相手の方を向けば、自分の気持ちが見え難くなり、

自分の方を向けば、相手の気持ちが見え難くなる

ということがあるのかもしれません。


つまり、「自分が無い」の意味は、

相手のことを大切にしようとする傾向が強い

ということかもしれないと思います。


「相手が気になる」 という言葉で表現される場合もあるかもしれません。


相手が気になると、どうしても、自分の気持ちよりも、

相手の気持ちを想像する時間が多くなるので、

「一 生懸命に想像した相手の気持ち」を話したり、

行動や言葉などもその相手に似てきてしまうのは

自然な事なのかもしれないと思います。


その状況で、「自分を感じたい」と思う場合は、

その時々に、「今、私が気になっている相手は誰なのだろう?」と考えてみようとすると、

その相手のことを一生懸命に考えている自分自身

と出会うことが出来るのではないかと思います。


そして、その出会いは、相手に向いた意識が、左でも右でもない丁度中間(左も右も見ることの出来る位置)に、移動し始めるきっかけになるかもしれないと思います。


あくまでも、一般論として考えてみましたが、

少しでも参考になる部分があればと思います。

2005年5月18日水曜日

心に厳しい家庭

「厳しい家庭」と聞くと、

大体の人は次のような事をイメージするのではないかと思います。


・門限が厳しい

・礼儀に厳しい

・教育にとても熱心

・親が色々な事にうるさく言う

...etc



でも、カウンセラーとして、心のことに関わる中で、

「厳しい家庭」ということのイメージが変わりました。


今回は、そのことについて、少し書いてみたいと思います。


結論をはじめに言ってしまうと、

『共感』を得ることのできる確率の低い家庭が、心にとって厳しい家庭

という事になると考えています。


『共感』が少ないと、どうしても、

共感されなかった人の気持ちは家庭の中で孤立してしまいがちになると思います。



■心に優しい家庭(共感の多い家庭)

・嬉しい時に、一緒に喜んでくれる

・悲しい時に、一緒に悲しんでくれる

・怒った時に、一緒に怒ってくれる

・迷った時に、一緒に迷ってくれる

・自分が「頑張った」と思ったときに、「頑張ったね」って言ってくれる

...etc


これらの頻度が少なくなればなるほど、

心に厳しい家庭である確率は高くなるように思います。


そして、最も厳しい状態が、「無関心」なのかもしれません。

ここで注意が要るのは、

・励ましたり

・代わりに結論を出してあげたり

...etc


することです。


良かれと思ってやってしまいがちな、これらの対応は、

一見、『優しい』ように思えてしまうのですが、

共感が少ないうちにやってしまうと、共感というよりは、

むしろ、「落ち込んでいること」や「迷っていること」を否定する意味を持ってしまうことが多く、

どちらかというと「厳しい家庭」に属するものであるような気がしています。


もし、自分の過去を振り返って、

「自分は恵まれているのに、どうして・・・・」と自分を責めてしまう傾向があるとしたら

『自分の欲しかった共感を100点とした時に、

実際に与えてもらえた共感はいくつだったのだろう?』と考えてみると、


・ひとりで一生懸命にやってきた自分の頑張りに、自分自身が気づいたり、

・頑張ってきた自分自身を労わってあげることが出来るようになったりする


きっかけになるかもしれないと思います。


また、もし、あなたが親の立場で、

子供さんのことで困ってしまう状況に置かれているとしたら

、難しいことをあれこれ考える前に、

『自分は子供の色々 な気持ちに、きちんと共感できているだろうか?』と、

もう一度、振り返ってみると、

これからのヒントに気付くきっかけになるかもしれません。



「考え方や感じ方が違う」ということと、

「共感できる/できない」ということは、

全く次元の異なることなのです。


相手の考えは、説得などを通して変 えることは出来るかもしれません。


でも、相手の気持ちは、それを理解しようとすることしか出来ないのだろうと思います。


そして、もし、変わることが必要だ としたら、

共感される中で、相手の気持ちは自然に変わっていくものなのかもしれません。

2005年5月15日日曜日

身に付いてしまった反応

相手からの刺激 → 自分の反応 → 相手への刺激 → 相手の反応 → 相手からの刺激 → 自分の反応 → 相手への刺激 → 相手の反応 → 自分への刺激・・・・


と書いてみると、

途中のある部分で区切ってみた時、

「相手の反応によって自分が反応しているのか、

自分の反応によって相手が反応しているのか」ということが、

「鶏が先かたまごが先か」みたいな感じでわからなくなってしまうと思います。

(少し、無理矢理な説明ですが・・・(苦笑))


「自分は、場所が変わっても、なぜかいつも周りから同じような扱いを受けてしまう・・・」

というように感じることって、あるかもしれません。


それが、自分にとって好ましい扱いであれば、何の問題もないと思います。


しかし、それが、自分にとって好ましくない扱いであれば、

もしかしたら、そんな風に同じような扱いをする人たちばかりが居る世間をうらむような感覚を抱くこともあるかもしれないと思います。


はじめの部分に書いたことは、そんな状況から抜け出す為のヒントを与えてくれているような気がします。


例えば、次のような感じです。


【相手の行動】怒る  ⇒  【自分の反応】おどおどする

繰り返し怒られ続けていると、おどおどした態度が身についてしまって、次のような流れを作ってしまうことがあると思います。

【自分の行動】おどおどしている ⇒  【相手の反応】怒こる

もともとは相手の行動に対する反応の行動(おどおどする)であったものが、逆に、相手にその反応(おどおどする)の元となる行動(怒る)を呼び起こしてしまうようなところがあるかもしれないと思います。

『「怒る」⇔「おどおどする」』というのは、あくまでも例えで、他にも、もっとたくさんのパターンがあるだろうと思います。

もし、あなたが、「自分にとって好ましくない扱いを受けることが多い」と感じているとしたら、あなたがそうさせているのではなく、あなたの意図しない行動がそうさせていると考えることが出来るのかもしれません。


だから、特にあなたの本質を変えようとしなくても、行動や反応のパターンを変えようとすることは、あなたの望む状況を手に入れる手助けをしてくれるのかもしれないと思います。

2005年5月14日土曜日

コミュニケーションにおける傾向性

「過去の自分にとっての重要な人間関係の中で、

どのようなコミュニケーションを多く経験したのか」ということが、

その人のコミュニケーションの傾向性のある部分に影響している場合もあるかもしれません。


●聞き役

・相手の言っていることを理解することが重要

⇒相手が言っていることを理解することで満足する(できる)傾向を持っていることがある


●話し役

・自分の思っていることを相手に話すことが重要

⇒自分の思っていることを話すことで満足する(できる)傾向を持っていることがある


もともとのコミュニケーションの目的は、

お互いの気持ちを同じ程度わかりあうことではないかと思っています。


その為には、コミュニケーションのバランスが取れていることが重要で、

流れにしてみると次のようになると考えています。


【コミュニケーションのサイクル】

*サイクル1*

①Aさんが、自分の気持ちをBさんに伝える

②Bさんが、Aさんの気持ちを受け止める

③Bさんが、Aさんに、Aさんの気持ちを受け止めたことを伝える

④Aさんが、Bさんが自分の気持ちを受け止めてくれたことを理解する


*サイクル2*

⑤Bさんが、自分の気持ちをAさんに伝える

⑥Aさんが、Bさんの気持ちを受け止める

⑦Aさんが、Bさんに、Bさんの気持ちを受け止めたことを伝える

⑧Bさんが、Aさんが自分の気持ちを受け止めてくれたことを理解する


このコミュニケーションの2つのサイクルを、大切に繰り返していこうとすることが、お互いの気持ちを大切にすることにつながるのではないかと考えて います。

逆に、このサイクルが崩れていくと、『分かり合えない』という心境に陥ることにつながってしまうのではないかと思います。


もし、自分のコミュニケーションの傾向性に偏りがあると感じた場合、もしかしたら、このサイクルを崩すことにつながってしまっているかもしれませ ん。

なぜなら、満足することで、その人は、コミュニケーションのサイクルの次のステップを必要としなくなってしまうかもしれないからです。


【自分の傾向】

自分に『聞き役』の傾向があるとき

相手に、自分が理解したことを伝えることが疎かになることがあるかもしれません。

そして、理解したことを伝えるついでに、自分の気持ちを伝えてみようとしてみると、コミュニケーションのサイクルを正しく機能させることを助けてくれるかもしれません。


自分に『話し役』の傾向があるとき

相手が、自分のことを理解したかどうかを受け止めることが疎かになっていることがあるかもしれません。

そして、理解してもらったことを受け止めたついで に、相手の気持ちも聴き出そうとしてみると、コミュニケーションのサイクルを正しく機能させることを助けてくれるかもしれません。


【相手の傾向】

相手に『聞き役』の傾向があるとき

相手に、「これが私の気持ちなんだけど、こんな話を聞いて、あなたはどう思う?」とか、「ところで、あなたは、どう思っているの?」などと投げかけてみると、コミュニケーションのサイクルは、より良いものになるかもしれません。


相手に『話し役』の傾向があるとき

相手に、「あなたの気持ちは良く分かったわ、今度は私の思っていることを聞いて欲しいの」と投げかけてみると、コミュニケーションのサイクルは、より良いものになるかもしれません。

また、『聞き役』や『話し役』傾向性のことは横に置いておいて、コミュニケーションが上手くいかないと感じたときは、コミュニケーションのサイクルを、点検してみると、何かヒントがつかめることもあるかもしれないと思います。

2005年5月13日金曜日

認める・認めない

頂いたテーマについて考えてみます


【テーマ】

・人を見下したり見下されるのは何故?

・認める事を心理学的に教えて欲しいです

・恥ずかしさについて

・人に合わせてしまう


1.人を見下したり見下されるのは何故?

これは、まず、次のように読み替えてみると、少し分かり易いかもしれません。

○人を見下す

○人から見下されたように感じる



「見下す」については、


その個人の価値観によって評価出来ないものは排除しようとすること、と言えると思います。

つまり、何か原因を求めると したら、それは、見下す人の側にある可能性が高いのです。

どうして、自分の価値観以外のことを認めることができないのだろう?

そこには、そうならざるを得 ない背景があり、そして、それが、他の人の価値観を受け入れることの出来ない人の苦しみでもあると思います。

とはいえ、実際に見下された人は、やっぱり、 傷つくと思います。でも、他に安心させてくれる人がいれば、きっと、「見下すのはその人だけなんだ」と思えて、気持ちが楽になることを助けてくれると思い ます。


「見下されたように感じる」については、

もし、相手が、本当は見下していないとしたら、その人の言葉や表情や仕草などによって、過去に「見下された」と感じてつらかった時の気持ちを思い出してしまった状態、ということが出来ると思います。

「この人は私のことを見下している」と感じた本当の相手は誰なのでしょう?

自分が一番認めて欲しいのに、認めてもらえない人(認めてもらえなかった人)が誰なのかを考えてみると、自分自身の本当の気持ちや、目の前に居る人はその人ではないという事に気づくかもしれません。


2.認める事を心理学的に教えて欲しいです

自然の中で、何もすることもなくボーっとしていると、ありのままの自分が、自然に抱かれているという感じを感じたことはありませんか?

「認める」「認めない」ということの以前に、もともと、人を含めて、この世のあらゆるものは、そのままの状態で自然は受け入れてくれていると いうことなのだろうと思います。

そのように全てが受け入れられている状態から、何かを排除しようという風に働く力を、時に「認めない」という言葉で表現す ることもあるのだろうと思います。

逆に、「認めない」ということを感じない状態なら、それは、「認められている」というように理解できるのかもしれませ ん。


さて、そこでポイントとなるのは、「なぜ、その人は、『認めない』のか?」という事です。

たぶん、「認めることが出来ない」と理解した方が、分かり易いかもしれません。

本人は意識していないことが多いのですが、それを認めてしまうと、自分自身の何かが否定されることにつながるような錯覚を持ってしまっているのだろうと思います。

心理の用語を使うとすると『防衛機制』が働いていると言えると思います。

少し分かり難かったかもしれませんが、簡単に言うと、認めない人は自分自身に対しても、そのことを戒めながら頑張ってきた人と言えるような気がします。

つまり、「認められないこと」は、その人の苦悩そのものなのかもしれません。


余談ですが、「認めない」力として働くものは、「社会」や「文化」や「その時の社会の知識レベル」などというものもあります。

でも、結局は、それら は、ただの流行でしかないのです。

そして、それは、真実を語っているわけではないと思います。

コペルニクスかガリレオか忘れてしまいましたが、「それで も、地球は回っている」と言ったのは、流行と真実とのギャップに、正しい人が苦しんだということだろうと思います。


だから、「正しい」「正しくない」ということは、そんなに重要ではないのかもしれません。

そして、一番大切な事は、「自分にとっての安心できる場所や相手を見つけること」のような気がします。



残りのテーマ

・恥ずかしさについて

・人に合わせてしまう

について、軽く触れると、どちらも「自分の気持ちを表現し難い状態」の時に、恥ずかしそうに見えたり、恥ずかしいと感じたり、その結果相手のペースで事が運んでしまって、「人に合わせてしまう」と感じる状況になってしまうのかもしれません。


これも、前の2つのテーマと同じように、「『自分の気持ちを表現することが難しい』と感じている一番身近な相手は誰だろう?」ということを考えてみると何 かに気づくきっかけになるかもしれないと思います。

もしかしたら、それは、自分の気持ちや感覚を表現した時に、「受けとめてもらえた!」となかなか感じさ せてくれない人なのかもしれません。

最後は、少し手抜きで、ゴメンナサイm(__)m


少し寝ぼけながら考えているので、文章が分かり難かったり、論理がおかしいところがあるかも知れませんが、何か参考になる部分が、少しでもあることを願っています。

2005年5月10日火曜日

子供の眺め方

赤ちゃんは、必要最小限のこと以外は、

ほとんど何も出来ない状態で、この世に生まれてきます。


そんな赤ちゃんが、一人前の人間に成長していく流れを、親がどのように受け止めたら良いのかということを、少し考えてみました。


生まれた頃は、ほとんど何も出来ないことは、恐らく、無条件に受け入れることが出来ると思います。

そして、「笑った」とか、「手を握った」とか、 「寝返りをうった」とか、「頭を持ち上げた」とか、「座った」とか・・・・、新しいことが、ゆっくりとしたペースで出来るようになる毎に、お父さんやお母 さんは、とても嬉しい気持ちで、赤ちゃんのことを褒め称えることだと思います。

つまり、子供は、新しい何かを出来るようになることで、親が、それを褒めるという行動をしながら喜ぶための口実を与えてくれる、ということなのだろうと思います。


また、赤ちゃんが、何も出来なかったことを思い起こせば、各成長の段階ごとの、子供の全ての行動は、『できるようになったこと』であるという見方が出来るのかもしれないと思うようになってきました。

つまり、「例えどんな行動をしたとしても、それは成長の証かもしれない」ということです。


ところが、時折、「~ができない子供」ということを意識することがあります。


その理由を考えてみると、たぶん、親の基準が、『無力であった赤ちゃん』から、『親の価値観/社会の価値観など』に変ってしまうタイミングにそう思うのかもしれないという気がしました。


それと、もう一つ、


赤ちゃんの頃は、親がどんなに焦ったとしても、赤ちゃんの成長のペースを変えることは出来ないと思い、それを受け入れているのだろうと思います。

親がいく ら望んでも、赤ちゃんは、笑う時にしか笑わないし、首が据わるときにしか首は据わらないのです。

そして、子供のペースで、だんだんと出来るようになってい くことを、心配しながらも見守っているのだろうと思います。

ところが、子供のペースでは、ダメに感じてしまうタイミングに、そう思うのかもしれないと思いました。


「いずれできるようになること」「子供の人生には実は必要ないかもしれないこと」を、その時に、「できない」と評価してしまうのは、たぶん、「親のあせり」の表れのような気がします。


「何で、私はあせっているの?」と、親が自分自身に問いかけてみると、親は、もともとの自分自身の苦しみから解放され、子育てが、もっと楽しいものなっていくのかもしれません。


■子供は、新しい何かを出来るようになることで、親が、それを褒めるという行動をしながら喜ぶための口実を与えてくれる存在


少し心に余裕があるときに、そんなことを思ってみると、良いかもしれません。


というようなことを、


うちの2歳の息子が、蟻ではない虫を見つけて、「おとうちゃん、ありだよ!」



と言ったのを聞いて考えていました。



「そうだね、アリみたいな虫だね!」(^o^)丿




今回の文章を考えながら、

『プラス思考』とか『マイナス思考』ということの根本は、

ここにあるのかもしれないと思いました。


・プラス思考 = 本人重視

  本人の大切な事と本人のペースを尊重する


・マイナス思考 = 世間体重視

  本人の大切な事と本人のペースも軽視する

それが、他人に対してであっても、自分に対してであっても・・・。


2005年5月6日金曜日

途中!?

このタイトルについて、

どのカテゴリーに書こうか迷ったのですが、

とりあえず、ここに書いてみます。


『途中』



これから書くことは、人生と向き合うに当たって、

とても大切なことを気付く為のきっかけになるような気がしています。


『人生の意味』を考えようとした時に、

「何を成し遂げたのか?」ということに目が向いてしまいがちなように感じています。


○事業を成し遂げる

○子供を一人前に育て上げる

○地位や名誉を得る

○何かの理論や原因を突き止める

○社会を良くする


等など、人それぞれ、思いつくことは、色々あると思います。


これは、「人生の目標を立てて、それに向かって努力する」ということで、

日本の文化においては、当然と思われる生き方のような気がします。


それはそれで、とても大切な事なのですが、『人生の目標』『主』とした生き方をすると、恐らく、ほとんどの人は、今回のタイトルである『途中』というものに遭遇することになってしまうのであろうと思います。


『途中』、それは、『死』に直面するときに起こります。


何かを達成しようとやっていたことを、

『途中』にしたまま、人生を終えなければならなくなるのです。


そして、『途中』だと思うと、きっと、悔いが残るだろうと思います。


【例】

食事をしていて、食事の最中に死を迎えた場合、

・食事を終えることに目が向いていると、「食事の途中で(やり残して)死んでしまった」ということになると思います。

・食事中のあらゆる瞬間に、その瞬間瞬間の動作や感覚や気持ちと、しっかり向き合っていると、「食事の最中に死んでしまった」という表現になるのだろうと思います。


何かが伝わればと思います。


少し、話が逸れるかもしれませんが、


『目標』を立てて、それを実現する為に生きていると、もし、せかっく見つかった目標が、人生の早いうちに実現されてしまった時、新しい目標を探さなければならなくなってしまいます。


言葉で『目標』と書くのは簡単なのですが、「人生の目標としうよう!」と自分自身が思える目標を見つけるのは、結構、苦しいものではないかと思います。

そ して、やっとの思いで目標が見つかったとしても、達成してしまうと、また、次の目標が必要になってしまうのです。

そして、やっぱり、『途中』と遭遇するこ とになるのです。


『人生の目標』は、人生を豊かにしてくれるのは、間違いないことだと思います。


でも、人生そのものを『途中』という言葉を使って表現しない為の、大切なものがあるような気がします。


つまり、『人生の目標』は、人生において『副』なのだろうと思います。


そのためには、今まで目が向いてしまいがちだった、「始まり」「終わり」ということから少し離れて、今まで『途中』だと思ってきたことを大切にしようとすると、人生においての本当の『主』となる何かに気付くきっかけになるかもしれません。


●家に帰る途中

●ごはんが始めるのを待っている間

●社会に出たら・・・

●子供が大きくなったら・・・

●出世したら・・・

あなたには、このような言葉で、

『途中』扱いしてしまっている時間はありませんか?


『途中』に目を向けることが、

人生を『途中』で終わらせない為に大切な事なのかもしれません!?


禅問答的に言えば次のようになるのではないでしょうか・・。


『途中のあなたは誰なのですか?』

2005年5月5日木曜日

満足を感じる時の傾向

自分が、どんな状況で納得感や満足を感じるかを考えた時に、

ある傾向があることに気付くことがあるかもしれません。


前回と前々回のテーマ『馴染み深い「方法と収穫」』で書いたことの焼き直しになるかもしれませんが、少し書かせて頂こうと思います。

簡単におさらいすると、
○人には、子供の頃に、両親や養育者などから、多く受け取ることができた愛情を、大人になった後も、無意識のうちに求めてしまう傾向がある。
○その与えられた愛情が、自分が本当に望んでいたものと異なっていても、あたかも自分の望んでいたものであるかのように自分を錯覚させながら、それを受け入れてしまう。
そのようなことを、2回に渡って説明させて頂きました。

そのことが、今の自分にどのように影響しているのかを知るには

「自分は人とのコミュニケーションにおいて、どのような時に満足する傾向があるのだろう?」

と考えてみると良いかもしれません。



ただ、それは、


・自分にとって、あまりにも当たり前のこと

・そして、理由なく満足を感じることなので、


意識しなければ、「その満足は、自分に特有のもの」ということには、

なかなか気付くことが出来ないだろうと思います。



ちなみに、私の場合は、

・相手の話を自分が理解できた時に、満足を感じる傾向がある

という事に、カウンセリングに携わるようになってから気が付きました。

これは、

・自分の話は聴いてもらえずに、母親の一方的な話を、ただひたすら聴き続けなければならなかった

という子供の頃の経験が影響しているような気がします。


その『満足感』は、心に染み付いているので簡単に手放すことは出来ないし、

それで満足できることも確かな事なので、

手放なさずに大切にとっておいても良いものだと思っています。



そして、過去の自分と、今の自分の違うところは、

「相手の話を理解することで満足する」以外に


・自分の気持ちを、相手に伝えることで満足しても良い

・自分の気持ちを、相手に聴いてもらうことで満足しても良い

・自分の気持ちを、相手に受けとめてもらうことで満足しても良い

・自分の気持ちに、相手が応えてくれることで満足しても良い


などなどに気付いているということです。


気付いているから、「相手の話を理解する」という昔からの方法で満足を得ながらも、

たまには、それ以外の新しい満足をつまみ食いすることもできるのです。



少し毛色が違うかもしれませんが、

『満足』につながるかもしれないことを少し挙げてみます。


・お金を貰うこと

・物を買ってもらうこと

・褒めてもらうこと

・評価されること

・面白いと思ってもらえること

・笑ってもらえること

・優しく見守ってもらえること

・・・

たぶん、満足の種類は、人の数だけあるのだろうと思います。


そして、それは、「過去にどのような事で満足しなければならなかったか」ということに囚われている部分は、たぶんあると思います。


だから、「それで自分が満足できる」ということを活用しつつも、

それ以外にも、「自分が満足出来ることは、きっとあるだろう」と考えてみることは、

『新しい満足』『自分の本当の気持ちが望んでいる満足』

手に入れるきっかけになるかもしれないと思います。


2005年5月4日水曜日

馴染み深い「方法と収穫」(その2)

前回の『手に入れようとすること』に続いて、

今回は、『手に入れるための方法』ということについて、考えてみたいと思います。

前回の内容の振返り
○自分の本当の願いを諦め、
○実現できる程度に抑えた願いをかなえる経験を繰り返すと、
○妥協せざるを得なかった環境から離れた後でさえ、本当の願いを棚上げしたままにして「妥協したた願い」を無意識のうちに求めてしまう
という状況に陥ってしまっていることがある
【前回の補足】

特に、小さい頃に、大きな影響を受けざるを得なかった人(お父さん、お母さん、養育者など)からの愛情に関わる部分が重要ではなかと考えています。

そして、「本当の願い」が「妥協してしまった願い」に落ち着いてしまうのは、本人の責任というよりは、その愛情を与える側の人たちの能力が関係していると思っています。

親と子、或いは、人間と人間の心のせめぎ合いの中で、与える側の人がギリギリまで頑張って与えることが出来た愛情が「妥協してしまった願い」なのだろうと思います。

それ以上のものを与えることが出来ず、そして、それ以上のものを得ることが出来なかったから、妥協せざるを得なかったのだろうと思います。


ここでは、親や養育者などの能力が関係していると言っているだけで、親や養育者などに問題があると言っているのではありません。

親や養育者も、子供の頃に、本当の願いを我慢せざるを得なかった状況がきっとあっただろうと思います。

そして、その親も、そのまた親も・・・・。


(「我慢は、世代をまたいで伝染する」と表現できるかもしれません。)


だから、誰かの責任かというと、誰の責任でもないのだと思います。

子供の心が傷ついていたら、きっと、その親や養育者の心も傷ついているのだろうと思います。


だから、自分の「心の傷」の原因を探して責めようとするのではなく、その心の傷を自分の子供に伝えないようにすることが大切だと思います。

その為には、自分の立場が「親」や「子供」であるということとは関係なく、まず、自分自身が「我慢してしまっている本当の願い」に気付こうとし、そして、癒されようとすることが、とても大切なことだと思います。



前回の補足が長くなってしまいました。

それでは、今回のテーマに移ろうと思います。



●手に入れるための方法


「欲しいものは、手っ取り早く手に入れたい」と思うのは、当然のことだと思います。

だから、「自分の願い」を繰り返し求めるうちに、それを効率的に手に入 れる方法を見つけ、身につけていくことも、普通にあることだと思います。

そして、その行動を繰り返しているうちに、「その行動は、『自分の願い』を叶えて くれるだろう」と、行動と予測される結果との結びつきが強くなって、その行動をすると、何となく「良いことが起こるような気がする」という予感を感じるようになっていきます。

だから、「満たされない」と感じたときは、気付かないうちに、「満たされるかもしれない」と感じさせてくれる馴染み深い行動をすることは、多いと思います。

ここで、大切な事は、その結果として、「本当の願い」が叶えられるのか、それとも、「妥協した願い」が叶うことになるのかということだと思います。



【例】

本当は、「自分が話したいときに、じっくりとその話を聴いてもらうことで愛情を感じたい」と願っていたのに、それが叶えられなかった場合、次のような状況になってしまうことがあるかもしれません。

○自分が他人から評価されたときだけ、親に褒めてもらえた

  → 良い評価をされると褒めてもらえそうな予感がして、いろいろな場面で手が抜けない

○自分に対して無関心な親が、悪いことをした時だけ、叱り付けるという関わりをしてもらえた

  → 自分の気持ちが満たされないと感じたときに、相手を怒らせるような事をしてしまう


この例の場合は、本当に叶って欲しい願いは、成果を評価してもらうことでも、怒られることでもないと思います。

あまり、上手い例ではなかったかもしれませんが、雰囲気を感じてもらえたらと思います。


【補足】

そのような行動によって「妥協してしまった願い」しか実現出来なかったのは、実は、過去の環境に限られたことだと気付くことは、小さい頃には難しかったけれど、今は、「もっと、自由に望んでも大丈夫」と思うことを手伝ってくれるかもしれません。


心に「何となく満たされないような感じ」を感じているとしたら、もしかしたら、「妥協した願い」を求めてしまう傾向があるのかもしれません。

そんな場合 は、「自分には『パターン化された行動』はあるだろうか?』と、ちょっとチェックしてみることは、何かの役に立つかもしれません。

もし、パターン化された 行動に気付いたら、「その行動によって、今まで得てきたことは何だろう?」と少し振返ってみると、共通点のようなものが見えてくるかもしれません。

そし て、その共通点を、じっくりと眺めようとすることは、「妥協した願い」や「本当の願い」に気付くことを手伝ってくれるかもしれないと思います。


「本当の願い」に気付いた時、今までの行動パターンを変える必要性に迫られることがあるかもしれません。

でも、今までの行動を変えるということ は、とても勇気が必要なことだと思います。

なぜなら、今までの行動パターンを繰り返していると、「自分の願いが、きっと叶うだろう」と感じていることが出 来るからです。

そんな、ある意味自分の気持ちを安定させてくれる大切な行動を手放そうとすることは、とても苦しく感じてしまうこともあるかもしれないので す。

ですから、無理に手放そうとしない方が良いかもしれません。



その気持ちや行動を大切にしながら、


「気付くことが出来た『本当の気持ち』」を大切する為の新しい方法を、たまに、つまみ食いしてみる


誰かに心の支えになってもらいながら

そんなつまみ食いを、少しずつ繰り返しているうちに、

新しい方法が、だんだんと心に馴染んでいくのだろうと思います。


そして、それは、『叶いそうで叶わない予感』の呪縛から抜け出し、

『叶える喜び』を手に入れることにつながるのかもしれません。


馴染み深い「方法と収穫」(その1)

人には、意識しないところで、

次の2つの傾向性を身につけてしまっているところがあるように思います。


○特に意識していなければ、これまで慣れ親しんできた行動を、無意識のうちに繰り返してしまう

○その行動によって、過去の試行錯誤の結果、もっとも手に入れることが多かったことを、無意識のうちに求めてしまう


この2つをまとめると、

『今まで手に入れることができたことと同じものを、今までと同じ方法で手に入れよう』

と無意識に反応してしまう傾向があるという表現になります。


『1.手に入れようとすること』、『2.手に入れるための方法』という2部構成の第1回目として、今回は、『手に入れようとすること』について、詳しく考えてみたいと思います。


●『手に入れようとすること』について

本来ならば、『自分が手に入れたいもの』そのものを手に入れることが、最も望ましいことであることは、明らかな事です。

しかし、思い通りにならないのは世 の常で、人は、なんとかそれを得ようと試行錯誤を繰り返す中で、たまたま、「これが望んでいたことかもしれない・・・」というものを得る経験をします。

そ して、再び試行錯誤を繰り返し、『何かを得る』という経験を積み重ねていきます。

そうする中で、自分が望むことで手に入れることができることを、経験的に学んでいきます。

そして、手に入れることができることを、効率的に手に入れようとするようになっていきます。


つまり、望みそのものが、知らないうちに、次のような流れで割り引かれていくということを意味しています。



◇自分が本当に手に入れたいもの
      ↓
◇自分が本当に手に入れたいものに近いもの
      ↓
◇自分が本当に手に入れたいものではないが、無いよりはマシと思えるもの



ですから、今、あなたが「私は、こう望んでいる」と思っていることは、

実は、あなたの本当の気持ちではない可能性があるのです。


【例】

本当はお父さんやお母さんにゆっくり話を聴いてもらうことで、愛情を感じたいと思っていても、

○忙しくて話は聴いてもらえないけどお金はくれるお父さんだったら、お父さんに対しては、お金を貰うことで妥協してしまうかもしれません。

○また、何か、ものを買ってもらうことで妥協してしまうかもしれません。

○自分の話ばかりをするお母さんだったら、構ってもらえないよりはマシなので、お母さんの話を聴くことで満足しようとするかもしれません。

○子供に無関心な両親だったら、褒められようと努力したり、無視されるよりマシなので怒られようとするかもしれません。

他にも、たくさんの状況はあると思います。


そして、育った家庭や環境を離れた後でも、自分が満たされないと感じたときに、本当は大人になったことによって、もっと自由に望むことが出来るなずなのに、小さい頃に馴染み深かった『愛情の代替物』を、やっぱり得ようとしてしまうところがあるのです。


自分が満たされないと感じたときに、相手にどんなことを求めるかという傾向を見つめてみると、愛情の代わりに求めてしまっていたことや、我慢してしまっていた本当の望みに気付くきっかけになるかもしれません。


また、もし、「何かを望むことが実現しても、なぜか満たされない・・・」という感覚があったら、「自分が本当に望んでいることって何なのだろう?」、「私は、一体何を我慢しているのだろう?」と、ゆっくりと見つめてみようとすることは、大切な事かもしれません。

2005年4月29日金曜日

他人に厳しく、自分に甘い、は・・・・ウソ

不平不満を話す中で、

「あの人は、『他人に厳しく自分に甘い』」

という言葉を、口にしたり、耳にしたりすることはあると思います。

でも、その言葉は、真実を語れていないような気がします。


そんな話を、もう少し詳しく聴いてみると、

雰囲気としては、次のような文脈になっていることがとても多いと思います。


Bさんが言いました。
だって、Aさんは私に、「時間を守りなさい!」ってうるさく言うくせに、自分はどうなのよ!この前、「自分の机を綺麗にしてね」って頼んだのに、相変わらず汚いままじゃないの!

この文章を何度か読んでみると、

●Aさんは、『時間を守る』ということを大切に考えている

●Bさんは、『整理整頓』ということを大切に考えている


ということに気が付くと思います。


つまり、それぞれが大切だと思っていること(大切にしている価値観)は違うという事になります。



Bさんが、Aさんの視点に立って、Aさんの行動を見たとき

・Aさん自身が時間にとても厳しく行動している

ということに気が付くと思います。


逆に、Bさんが、Bさんの視点に立って、Aさんを見たとき

・Bさんがそのことにルーズだ

と感じる以外に、

・実は、Aさんがそのことを疎かにしたとしても、同じように寛大な対応をとっていた

ということに気付くのではないかと思います。


でも、Bさんは、そんな時、自分で自分自身を戒めているので、Aさんがそのことに対して寛大であることに気付けないのではないかと思います。


だから、『他人に厳しく自分に甘い』という言葉には、今ここで、ガセビアの沼(?)にでも沈んでもらってはどうかと思います。

「他人に厳しく自分に厳しい」、そして「自分に甘く他人に甘い」

この言葉を頭の片隅にでも留めておくことは、

今まで受け入れることが出来なかった色々なことの意味を、

理解することを手伝ってくれるかもしれません。


【補足】
「相手が他人に厳しく要求している」とあなたが感じること

それをゆっくり見つめてみると、相手の苦しみを理解することを手伝ってくれるかもしれません。


あなたが、他人に対して苛立ちを感じたり、厳しくしてしまうこと

それをゆっくり見つめてみると、自分自身の苦しみの理由に気付き、そこから開放されることを手伝ってくれるかもしれません。


2005年4月21日木曜日

相手の気持ちを読むことの弊害

例え話です。

AさんとBさんがテーブルに座っていました。

テーブルには、あんぱんがひとつ

AさんはBさんに言いました


【パターン1】 このあんぱん、食べたい?

【パターン2】 私、このあんぱん、食べたい。



パターン1は、相手の気持ちを読もうとする部分が大きく、

パターン2は、自分の気持ちを相手に伝えようとする部分が大きい

と思います


パターン1で対応すると、相手を混乱させてしまう場合があると思います。

先に書いた例では、それほど混乱はないと思いますが、このパターンを多く使う傾向があると、時に、

●私、このあんぱん食べなくても大丈夫だよ

といった類のことを言ってしまうことにもつながるように思います。


このとき、もし、Bさんが全く違うことを考えていたとしたら、

「『あんぱん食べなくても大丈夫』ってどういうこと?」

というような感じに、混乱してしまうだろうと思います。


そして、Bさんは、混乱の中で色々と考えて、

Aさんが「自分があんぱんを食べたいと思っている」という自分の気持ちを読んでそう言った

ということを理解します。


つまり、Bさんも、自分の気持ちではなく、『Aさんが読んだBさんの気持ち』を意識しなければならない状態になってしまいます。


その結果、AさんとBさんの間には『幻のBさん』が介在することになってしまいます。

そして、それは、極端な表現をすると、本当のBさんの気持ちは無視されることになってしまうのです。

だから、何かを質問しようとしたり、何かを言おうとしているときに、そこに相手への気遣いがあると感じたら、本当の自分の気持ちが隠れているかもしれないと考えてみることは大切かもしれません。


そして、その本当の気持ちを表現することは、『幻のBさん』を追い出すことを助けてくれるかもしれません。

◆私、あんぱんが食べたいのだけど、あなたは、どう?

◆私、あんぱんが食べたいのだけど、1つしかないから、あなたの分がないと思って困ってる
の・・・。あなた食べたい?

そんなことを素直に表現して相手に伝えることは、あんぱんを2人で半分ずつ食べて、2人ともおいしい思いをすることにつながるのかもしれないと思います。

もし、あなたが、誰かと上手くコミュニケーションがとれないと感じているとしたら、あなたの周りにも、『幻のBさん』がいて、あなたたちの邪魔をしているのかもしれません!?

相手に何かを言った時、相手から「どうして?」という言葉が返ってきたとき、『幻のBさん』があなたの本当の気持ちを隠してしまっているのかもしれません・・・。

2005年4月8日金曜日

ため息のススメ

ため息』というと、

何となく「必要の無いもの」というようなイメージをもたれる方は多いのではないでしょうか?


でも、催眠療法と長く関わっていて、『ため息』の役割が、

ようやく理解できたような気がしています。


催眠状態で自分の中にある「好ましくない感覚」を吐き出すイメージをしながら、

深呼吸を繰り返していくと、

次第に嫌な感覚は薄らいで、リラックスした状態になることができます。



この事実をもとに、『ため息』のことを考えたとき、

我々が意識していなくても、

催眠療法の一つとして行うリラクゼーションと同じ役割を果たしているように思えてくるのです。


人間に限らず、動物の色々な行動は、

無意味に思えても、恐らく何らかの意味があるのだろうと思います。


そして、それは、何らかの欲求を満たす行動体の状態を調整する行動だけでなく、

心の状態を調整する行動も身に着けているということかもしれません。


だから、「疲れたなぁ~」とか「気が重いなぁ~」とか「怒りの感情」など、

色々な心に抱えておくことが苦しいような感情があるときは、

催眠状態であるかどうかには関係なく、『ため息』をつくことは、

きっと、心を穏やかにすることを助けてくれるのではないかと思います。


そして、無意識ではなく、意識して行うことが大事だと感じています。


また、毎日の習慣として、朝の10分、お昼の10分、寝る前の10分、

例えば座禅のポーズでもとって、嫌な感覚を吐き出すイメージをしながら、

ゆっくりと呼吸を繰り返す(意識して『ため息』つく)ことは、

リラックスを身に着けて、本当の自分に戻ることを手伝ってくれるかもしれません。


《ちなみに、私は、これを第2段階の座禅だと思っています。》

2005年4月5日火曜日

記憶について(寝言につき注意!)

『記憶』というものについて、私の今までの知識を総動員して、考えてみたいと思います。

半分以上、私の寝言のような内容です。興味がありそうだったら、学問的な裏づけはない事を了解した上で、適当に流し読みしてみて下さい。

普通に『記憶』というと、覚えている経験や知識のことを指していると思います。

そして、時にそれは、思い出せなくなったりすることもあります。

そういう類のものを『記憶』と呼んでいます。


そして、『記憶』はそれぞれの人に固有のものという考えも、当たり前のように受け入れられているように思います。


そう考えることによって、私たちは、次のようなことを暗黙のうちに受け入れてしまっているところがあります。


(1)記憶は、世代をまたがない

(2)記憶は、個体をまたがない


人間にとっては、当たり前と考えられていることなので、まず、人間以外について考えてみる方が分かり易いかもしれません。


(1)世代をまたぐ記憶

1つの細胞が、細胞分裂を繰り返して、動物や植物の形になることも、その種(しゅ)を保存する為の記憶、つまり、世代をまたぐ記憶の一つのような気がしますが、ここで注目したいのは、行動など、『普通は、文化として継承するもの』と人間が考えていることに関わる記憶です。


一般的に良く知られている例では、『ミツバチの8の字ダンス』があげられると思います。


言語を用いて説明するわけではないのに、ミツバチたちはそのダンスを見て、花がどこに咲いているかを、伝え、そして、理解することが出来ます。


「鳥がたまごを温める」、「蚊が水たまりにたまごを生む」など、他にも色々な行動が、文化としてではなく伝えられている事実を、たくさん知っていると思います。


これは、記憶が世代個体をまたがって伝わっていると認識しても良いのだろうと思います。

この類の記憶を、人間は、『本能』と呼んでいるのだと思いますが、表現を変えれば、『世代をまたぐ記憶』と呼ぶことも出来ると思います。


(2)個体をまたぐ記憶

15年ほど前に、当時暮らしていたアパートの自分の部屋に、アリの行列が出来てしまったことがありました。

排除することが忍びなくて放置した結果、1週間にわたってアリの行列を観察することになってしまいました(苦笑)。

その間、アリの行列に対して色々な働きかけなどしながら観察を続け、「アリは記憶を共有しているのではないか」という認識に至りました。

詳しいこと はここでは述べませんが、●認知、●誤認(思い違い/勘違い)、●忘却、と思われる現象が、アリの行列全体の動きとして観察されたと私は考えています。

当時、私が調べたところによると、「行動フェロモンによってアリがコントロールされている」という見方が一般的だったようですが、私個人としては、記憶を共有する機能を持っていると考えた方が理解し易い感じがしています。

(現在の最新の学問はどのような認識になっているかは、興味はあるのですが確かめるには至っていません・・・)


(1)(2)の記憶の前に、(0)『種が種である為の記憶』というものもあります。


これは、卵子と精子が出会って、1つの細胞が分裂して脳や色々な臓器や手足を形成して、人間や犬などの個体としての形を再現したりするような記憶です。


そして、最後に、一般的に『記憶』として認識されている後天的な経験や学習によって得られる(4)いわゆる記憶が加わえたものが、記憶の全体象だと理解できるのではないかと思っています。


我々人類の生活に最も影響するのは、「(4)いわゆる記憶」であることは経験的に明らかなことだと思います。


しかし、これらの記憶が複雑に絡み合って、自分の住む世界を認識すると考えたることも出来るかもしれないとも思います。


また、「前世の記憶を持つ人がいる」ということは、

先祖の記憶が、DNAなどを媒体として伝わる部分があるかもしれないと考えた時、自分の前世と錯誤してしまうような、自分の祖先が体験によって得た記憶も持ち合わせている

と説明できる部分もあるのかもしれないと想像しています。


集合無意識と呼ばれるものも、この種の記憶に属するのではないかもしれません。


※ここでの話には、『魂(たましい)』の領域のことには一切触れていません。


そちらの方は、「私の人生の終わりまでに、ヒントくらいはつかめればよいのに・・」と願っているのですが・・・。

もし、『魂の領域』があるとしたら、これらの記憶とは切り離されたところにあるのだろうと想像しています。

魂の世界にアクセスすることが出来る人もいるようなので、地球外の生命についてのお話や、その人の世界観/宇宙観など、いろいろな事を教えてもらえる機会が持てればよいのにと願っています。


【ご注意:ここから先は、もっと、寝言です!^_^;】

クローン人間という存在も、近い将来実現させてしまいそうな勢いがありますが、このように考えると、クローンとして生み出された人間の脳に、その種(タネ)となる細胞を提供した人の記憶のある部分が展開されてしまうことがあるかもしれません。

そして、その記憶をうまく扱えずに、行き詰まってしまう事になるかもしれないと想像しています。

人間が、いろいろな事を分かったように錯覚して、自然の中で傲慢な振る舞いを続けていくと、この複雑な宇宙のしくみと辻褄を合わせることが出来なくなって、とんでもないことになるのではないかと、とても心配です。


うまくまとまったかどうかは不明ですが、今回は、ここで終わりにさせて頂きます。


【最後まで、読んで下さった方へ】


私の寝言にここまで付き合ってくださって、ありがとうございました。!


2005年3月29日火曜日

ありがとうの大切さ

他の人から、

・助けてもらったり、

・自分にとってありがたいことをしてもらったり

したとき、心の中で、どのように感じますか?


それに対する反応として、大きく2つのパターンがあるように思います。


①心から嬉しく感じる

②恐縮したような感じになってしまう


例えば、何かをしてもらったりしたとき、「すみません」と言う人は、多いような気がしています。

これは、②のパターンに当たるように思います。


一概には言えないのですが、「照れるような感じ」も、もしかしたら、②のパターンになるかも知れません。


この2つのパターンには、とても重要な違いがあると考えています。


「恐縮する」とは、自分の中に負の感情を起こす事によって、正の感情を打ち消す事のように思います。


つまり、「嬉しい」といった感情を打ち消して、相手のしてくれたことを、自分にとって良くも悪くも無いことにしてしまいます。


悪く言えば、相手の好意を無にすることにつながってしまうのではないかと考えています。


本人にそんなつもりは無くても、意識せずに使った言葉によって、そのような心理状態に誘導されることもあるように思います。


別の説明をすると、


『自分が申し訳ない気分になることによって、自分がそれをしてもらうことは、特別のことではなく普通のこと(当たり前のこと)と思い込もうとしている』


と言えるかもしれないと思います。


ただ、それは、傲慢や悪意によってそうしていると言う意味ではなく、どちらかというと、「自分にとって嬉しいことをしてもらい慣れしていない」ということからきているように思っています。


慣れていないから、「自分にとって嬉しいこと」は例外として処理しようとする気持ちが、無意識の内に働いてしまうような気がします。


何かをしてあげたとき、相手の記憶に残っていないことが多かったり、或いは、相手から何もしてもらっていないと感じているとき、相手や自分の気持ちの中に、このような心理が働いていることがあるかもしれないと思います。


ですから、①のパターンの言葉、つまり、「ありがとう」という言葉を使うことに慣れていくことは、自分の嬉しい気持ちを大切にしたり、相手のしてくれたことを大切にすることにつながるのではないかと思います。


まず、「ありがとう」と言うこと、それは、ほんの小さなことかもしれませんが、世界観が変わるきっかけになるかもしれないと思います。


そして、「ありがとう」という言葉と一つになれたとき、色々な幸せが見えてくるのかもしれないと思います。

2005年3月10日木曜日

修飾語はあなたのもの

テレビを見ていて思うのですが、

事実を客観的に人々に伝える役割である報道番組・ニュースなどでさえ、

あまりにも安易に修飾語を使っているということに、

日本の将来に不安を感じています。



それは、経済や何かの発展のことではなく、将来の日本人の心に関する心配です。


例えば、事故現場からのレポートなどをする際、レポーターが次のような言葉を使っているのをテレビで目にすることは多いのではないでしょうか・・・。


目を覆いたくなるような状況です。


何となく聴いていると、聞き流してしまいそうな言葉なのですが、これは、とても主観的な言葉で、また、あまりにも抽象的な文章だと思います。


誰が、どういう価値基準だから、何に対して、そのように感じたのか?に関する表現が抜けています。


主語は、レポーターです。


レポーターが何を見たのか?

何を聞いたのか?

何を感じたのか?


火が苦手なレポーターだったのかもしれません。


ごみが散らかっていることを受け入れられないレポーターだったのかもしれません。

少しの血を見ても気絶するようなレポーターなのかもしれません。

他にも色々とあると思いますが省略します。

(駅伝やマラソンの中継をテレビで見ているときなども、同じような言葉によく出くわすように感じます。)


そして、それらが抜けた抽象的な報道を聞かされた人は、それぞれの人の価値観と照らし合わせて、修飾語から逆に事実を連想し、事故の状況を理解するのが、かなり当たり前になってきてしまっているようなところはあるように思います。


彼ら報道関係者が無意識に修飾語を用いることは、そこに何の意図が無いとしても、私たちが主体的に修飾語を用いることを排除する力となって働いていると思います。


修飾語というのは、『それぞれの人の価値観と照らし合わせて、物事を評価する』とても大切な言葉だと思っています。


その修飾語を自ら選択する機会を奪われていくことは、我々がそれぞれに大切にしている価値観を奪い取られていくことにつながってしまうのではないかと思います。


そして、修飾語が一般化してしまった時、それは、誰の価値観も含まない、味気ない意味の無い言葉になり下がってしまうような気がします。


こんな時は、普通は、こう言うだろう


「挨拶のできる良い子だったのに」というありふれてしまった言葉も、一般化してしまった修飾語の一つかもしれません。


一般化してしまった修飾語をそのまま受け入れることは、本当の自分を置き去りにしてしまうことなのかもしれません。


また、世の中に広まってしまった意味の無い言葉と同じように思わない自分を責めたりすることにつながるのかもしれません。


修飾語を意識せずにむやみに使うことは、みんなが本当の気持ちを話せなくなってしまうことにまでつながってしまうかもしれないと思います。


報道などに限らず、普段の生活の中でも、事実を客観的に把握し、それにふさわしい修飾語を自分自身で選び出すという普通のことを、もっと大切にして欲しいと私は願っています。

2005年3月8日火曜日

子供を叱ってるの?それとも、怒ってるの??

小さな子供と長く過ごしていると、イライラすることもたくさんあると思います。

そんな中で、子供に対して、何かを強く要求している時、

「これは『しつけ』なの?、それとも、子供に自分の『イライラ』をぶつけているの?」

ということが分からなくなってしまっている自分に気付きました。


そんな時、最近、心がけていることを少し書きます。

「そんなこと、当たり前だよ!」なんて言われるかもしれないのですが・・・・。

子供を叱った後で、

1.「どうして怒られたかわかる?」と子供に問いかけます。
まだ小さいので全然説明にはなっていないのですが、何らかの文章を言い切ったと感じられるところまでゆっくり待って聴いてあげます。

次に

2.怒った理由を、小さな子供でもわかるように、5W1Hなど文章を省略したりせずに、丁寧に、客観的に話してあげます。
もし、自分が感情的に怒っていたとしたら、この説明のつじつまが合わなくなってしまうように感じています。また、説明が最後まで済んでいないのに、説明を途中で止めたいと感じるときも、要注意な気がします。

3.感情に任せていたことに気付いたら謝る
自分が、理不尽な要求や独りよがりの考えによる要求を押し付けていたことに途中で気付いたら、謝るようにしています。

今は、こんなやり方が良いのかもしれないと思っています。

(子育てって、常に、試行錯誤ですね(苦笑))


【補足:独りよがりな考え】

『独りよがりな考え』とは、自分の気持ちを、客観的なこととして相手に押し付けようと表現したものだということが出来るように思います。


《例》ソースをじゅうたんにこぼした子供を怒ること

それがいつもいつものことだったら、ついつい、「じゅうたんにソースをこぼしたらダメって言ってるでしょ!」と怒ってしまいそうに思うのですが、どうですか?

でも、ソースをじゅうたんにこぼすことは、客観的には悪いことではありません。


親としては、

●じゅうたんが汚れるのがイヤ

●後片付けをすることがわずらわしい

などということなのだろうと思います。


だから、正しく伝えるとしたら、

「じゅうたんが汚れるのは、お母さんが嫌だから、そうならないように協力して欲しいの」

と、親がなって欲しくない状態にならないように、協力の依頼をするのが本当の形のような気がします。


※ただ、『小さい子供には言葉がうまく伝わらない』という問題は残るのですが・・・(苦笑)

親の根気も大事ですが、別の場所での親のストレス発散もとても大切な事だと感じています。


2005年3月7日月曜日

禅(座禅)の価値

座禅の価値について、少し書いてみようと思います。

何かの参考になればと思います。


私たち人間は、『いつも、何かを求めて、何かをしている』ようなところがあるように思います。

だから、目的や目標が無い状態がとても苦手です


空いた時間が出来れば、その時間をどのように過ごそうかと考え、『自分にとって価値があることをした』と思えないと、無駄に過ごしてしまったような感じがしてしまうところがあります。


また、この感覚は、人生についても同じようなところがあると思います。


これまでの自分の人生を振り返って、「価値があった」とか「価値が無かった」とか、考えてしまいがちです。


でも、その基準になる『価値』って、そもそも何なのでしょうか?


人生の終わりは、何の前ぶれもなく突然にやってきます。


だから、『何かを成し遂げる』ということに人生の価値を求めていると、恐らく、『やり残した』という思いを持ったまま人生を終えてしまうでしょう。


仮に、何かを成し遂げたとしても、何かを成し遂げた時点で、その先を生きていくことを正当化するための目標や目的を、新しく見つけ出さなければならない状況に陥ってしまうような気がします。


文章が飛んでしまうかもしれませんが、一般的に『価値』がありそうに思いがちなことは、実は、家族や社会など、色々な人間関係の中での評価に関わることがほとんどのような気がします。


そのような価値にとらわれて過ごすことは、他人を思うことに気をとられて、本当の自分を見つめることがとても疎かになってしまっている状態ということが出来ると思います。


『自分にとっての自分の価値』に気付くことが出来れば、もう、生きる為に理由を探す必要なくなるのです。


そして、意味不明な文章かもしれませんが、『自分を大いに生きられる』ようになるのだと思います。


人は、何かをしているとき、俗にいう『価値』に縛られているので、なかなか本当の自分を見つめることが出来ません。


でも、最初に述べたように、人は何もしないでいるということがとても苦手な動物です。


禅(座禅)の価値は、この矛盾を解決できるところにあるのです。


つまり、「何もしないこと」を「座禅をしている」と思うことで、「何かをしている」とうまく錯覚させてくれるのです。


そして、座禅をしている自分が、座禅から離れて、何もしていない自分になれたとき、『座禅と一つになれた』ということになるのだろうと思います。


座禅をするということは、そういうことだと思います。


2005年2月16日水曜日

罠(わな)

「罠(わな)」というと、そこに悪意が含まれるような印象を与えるかもしれませんが、これから述べる「罠」には悪意はありません。

でも、悪意が無いからそれ気付き難く、余計に性質(たち)が悪いのです・・・。

それぞれの家庭には、それぞれの家庭の罠があると思うので、それを考えることは、これを読まれている皆さんにお任せすることにして、それを考える参考になればと、私の家庭に仕掛けられていた罠をひとつ紹介したいと思います。


【例(私の場合)】

私の母親は、「疲れた」とか「しんどい」とかいう言葉を、よく私の前で、口にしていました。

小さい頃の私は、そう言われると、「何かしなければならないのかなぁ~」って気持ちになって、「何か手伝おうか?」とか「ボクがやろうか?」とかいう事を言っていました。

でも、今から考えると、何をして良いか分からなかったり、どうしたら良いのか分からなかったり、本当はしたくないという気持ちになって困っていたような気がします。

で、私が言葉では、「手伝おうか?」と言うものの、実際には動かない私を、私の母親は「手伝う気も無いのに言うな!」と責め、責められた私は、それができない自分が悪いのだと、自分自身を責めたのでした。


簡単に表現すると、「言いたくないことを言わされて、それを言うと責められる」という罠にはまっていたということだと思います。

もし今の自分がその場面に戻ることができたら、たぶん、心にも無いことを言わないでいられたり、言ったとしても、その後責められたら、「心にも無いことを言わせないで欲しい」と言えるような気がします。

母親(父親)に父親(母親)の愚痴を聴かされ続けると、父親(母親)が悪い人のように思えてしまったりするのも、そんな罠の一つかもしれません。

「私が、お母さん(お父さん)を守ってあげるから」というような事を思っているときも、罠にはまっているのかもしれません。

他にも色々とあると思います。

ほんの一例ですが、もし、あなたがお父さんのことを嫌いだと思っているとき、次のようなことを考えてみるのは何かの役に立つかもしれません。


○『「この人は、お父さんのことを嫌いと思っている」とあなたが感じている人』が、あなたの近くにいますか?

○本当は、あなたはお父さんとどうしたいのですか?(お父さんにどうしてもらいたいのですか?)



自分に仕掛けられたそんな罠に気付くことは、自分の本当の気持ちに気がついたり、自分の本当の気持ちを大切にするにはどうしたら良いのかを考え始めるきっかけになるかもしれないと思います。

2005年2月8日火曜日

魔法の言葉

私の上に、長い間覆いかぶさっていた言葉があります。

「おまえは、カホゴだから・・・」

この文章は、私の母親がよく口にした言葉なのですが、

私は母親の使う小バカにした文脈から、「自分は、カホ子(かほご)という普通ではない人間なんだ」と、長い間思い込まされていました。


その言葉に疑問を持ったのが、中学生の頃だったと思います。


色々な言葉に出会っていく中で、世の中に存在する「カホゴ」という言葉は、「過保護」であるという事に気付いたからです。


「過保護」にされた対象は幼かった頃の私かもしれませんが、その行為の主語は『母親』です。


でも、その当の母親が、「過保護」という言葉を使って、自分が過保護の対象としている私を責めていたのです。


つまり、いわれの無い罪を、着せられ続けていたのです。中学生になって、ようやく私は、その矛盾に気付き、指摘することができて、「自分はカホ子なんだ・・・」と思わされていた魔法の言葉の攻撃からは開放されたのでした。


「カホゴ」という言葉によって、私に伝わってきたニュアンスは、「お前は、普通ではないダメな人間なんだ」というものだったような気がします


そして、そのニュアンスを長い間受け続けることによって、『自分は出来損ないの人間なんだ・・・』と思い込まされてしまったような気がします。


その身についてしまった『漠然とした「自分は出来損ない・・・」という雰囲気』によって、時には「生きていてはいけないのかもしれない」と生きていることから逃げたくなるほど、私に重くのしかかり、その後も、私を長い間苦しめたように思います。


また、当時の母親は、私の事を自慢に思っていたらしく、「お前はできる子だ」と、よく言っていたように思います。


人格を否定され、肯定という形で親の期待を押し付けられ、本当は、かなり混乱してしんどかったろうと思います。


でも、幼かった頃の私は、そんなことに気付きませんでした。「自分はできる子なんだ」と、これまた信じ込み、一生懸命に勉強し、母親を満足させ続けていたような気がします。


今の私には、母親に悪意が無かったことは、理解できます。


でも、悪意の無い言葉に、深く傷つけられていたことも、また、確かなことです。


【まとめ】

子供を評価したり決め付けたりするような言葉は、それが良い評価でも、悪い評価でも、子供の自由を奪ってしまうことにつながってしまうかも知れません。


そして、子供の心に、その子の人生において長く重くのしかかる傷を残してしまうのかもしれません。


例えば、「エリート意識」などというものも、もしかしたら、そんな傷の一つかもしれません・・・。


親がしなければならないこと

それは、子供を評価することではなく、

その時その時の子供を受けとめる(受容する)、言葉方法を探そうとすることなのかもしれません。

2005年1月31日月曜日

諦めていること

「諦めると決断したこと」、或いは、「知らず知らずに諦めてしまっていたこと」は、その決断が自分の中での大前提のようなものになってしまって、あなたを不自由にしているかもしれません。


でも、その諦めは、過去に「諦めざるを得ない状況」に置かれていたから、そのように決断するしかなかったのかもしれません。


また、あまりよく分かっていなかった幼かった頃の自分がした決断だったのかもしれません。


「諦めてしまっていたこと」をもう一度、思い出してみませんか?

あなたの本当の願いが、見えてくるかもしれません。


そして、あなたが今置かれている状況は、過去の状況とは違うということに気が付くかもしれません。


あの時は幼かったけど、今は成長して、あの時出来なかったことが出来るようになっている自分に気付くかもしれません。


「諦めてしまっていたこと」をもう一度、思い出してみませんか?

2005年1月13日木曜日

正しく悩む為に

自分の心の流れが、少しだけでも良い方向へ動き出すことが、とても大切な事だったように思います。

そして、その緩やかな流れは、川の上流に降った雨が海にたどり着くように、その緩やかな変化の積み重ねを意識することができなくても、きっと、「本当の自分」に導いてくれると思います。


その為に、私にとって一番大切だったことは、「自分の感情を受け入れる」ということだったように思います。


自分の感情を「嫌な感情」だと感じてしまうと、そんな嫌な感情を抱く自分を責めてしまったり、人によっては、その感情を映し出すきっかけになった他人を責めてしまったりしてしまいがちな気がします。


私が苦しんでいた時は、「自分は、どうしてこう感じてしまうのだろう・・・」とか「自分は、何で他の人と同じように感じられないのだろう・・・」と思ってしまうことが多くありました。


でも、今から思えば、原因を探して解決しようとしているつもりでしたが、実は、「こう感じてしまう自分はダメだ!」「人と同じように感じない自分はダメだ!」と、ただ自分を責めているに過ぎなかったと思います。


自分にとって好ましくないと感じる感情を、否定するのではなく、肯定し、そう感じる自分の心の背景を理解しようとすることが、大切だと思います。


もう少し具体的に言うと、「~~~を~~~と思っていたら、そう感じてしまっても仕方ないよねぇ~」と、自分にねぎらいの言葉をかけてあげることだと思います。


うまい例ではありませんが、「数学のテストで100点をとらなければ生る価値が無い」と思い込んでいたら、40点なんて点をとってしまったら、とてもショックを受けてしまうだろうと思います。


また、40点以上の点数がとれなくなってしまったら、死にたくなってしまうかもしれません。


ただ、実際の生活の中では、この部分は本人にとっては、とても当たり前の事になってしまっていることが多いので、自分ひとりの力で気付くことは、もしかしたら、難しいことかもしれません。


その為には、他の人に相談することは、とても大切なことだろうと思います。


そして、カウンセラーによるカウンセリングを受けることも、きっと、その助けになると思います。


「どうして、100点を取らなければ生きる価値は無いの?」


その理由は、父親に褒めてもらいたかったからなのかもしれません。

もしそうだとしたら、100点をとっても、父親に褒めてもらえなかったら、その人の本当に欲しいものは手に入らないのです。


「自分が本当に手に入れたいものは何なのか?」


悩みの中に迷い込んで抜け出せないように感じた時、先を急ぐことは少しの間お休みにして自分が無意識に否定してしまっている自分の感情をもう一度見つめなおし、その感情を大切に扱おうとすることは、それに気付くヒントを与えてくれるかもしれません。


そして、自分の感情を肯定し始めた時、私の悩みの80%は解決していたような気がします。


【おわり】

2005年1月9日日曜日

暗示について

『暗示』というと、「特殊な状況で、あることを信じてしまう」というようなニュアンスを感じる人は多いかもしれません。

普通の感覚で生活している中では、それは確かにそうなのですが、実は、私たちの日常生活は『暗示』によって成り立っていると言うことが出来るような気がします。

『禅』とも通じるところがあるのですが、たった今生まれた人にとって、この世の中の全ては、特に意味はありません。

そして、そんな中で行動していくうちに色々な物と出合い、出合ったときの感情感覚と共に記憶されていきます。

【例】 りんご = 甘くておいしかった、サクっとした、赤かった、丸かった・・・

物に限らず、出来事についても、同じようなことが考えられると思います。

【例】 お正月 = 学校が休みだった、お年玉がもらえてうれしかった・・・

そのようにして、だんだんと色々なものに意味づけをすることで、この世の中を理解し、それがその人の世界観となっていきます。

もちろん、現代においては、『知識』として、感情を伴わずに記憶されるものもかなり多くあると思います。

でも、経験による感情や感覚を伴った記憶の方が、生々しく、その人の世界観に対しての影響は大きいだろうと想像できると思います。

人それぞれ経験することは、全く違うということは、容易に理解できると思います。

例えば、「初めて食べたリンゴが腐っていてお腹を壊して酷い目にあった」とか、「お正月も両親の仕事が休みではなかく、お年玉ももらえず、独りぼっ ちでの留守番は寂しかった」というような経験をしていたとしたら、リンゴやお正月に対する印象は、また違ったものになると思います。

そして、「リンゴ」とか「お正月」という言葉を聞くと、過去の経験に基づいて、未来を類推し、嬉しい予感や、嫌な予感を感じるようになります。

この一連のことが、実は、『暗示』なのです。嬉しい予感がするときは、その人の行動を妨げることはなく、また、その人も、幸せな感覚の中を過ごす事が出来ると思います。

逆に、嫌な予感がするときは、その予感によって、その人の行動は妨げられてしまうことがあります。

『過去にたまたま腐ったリンゴを食べてしまって、「リンゴを見るのもイヤだ」と思いこんでしまった人』を例に説明したいと思います。(その人は、他の人がリンゴをおいしそうに食べるのを見て、「僕も、みんなと同じように、腐ったリンゴを食べても大丈夫な体に生まれてきたかったなぁ・・・」と思っているとします。)

●もし、世界には腐ったリンゴしかないのであれば、
その人の嫌な予感は、その人の生命を守るためには必要な予感だと考えられます。また、その予感は、人類共通の予感であることも、想像できます。

●もし、その人の周りだけ、腐ったリンゴがあるのであれば、
腐ったリンゴのないところに行けば、リンゴをおいしく食べる準備の第1段階は完了します。

●もし、その人の周りは、おいしいリンゴしかないのに、リンゴが腐っているような感じがして、リンゴが食べられないのであれば、過去の経験の記憶から形作られる予感が、その人の自由を奪ってしまっていると言うことが出来ると思います。そして、その予感の修正が出来れば準備の第2段階は完了し、「みんなと同じように、リンゴをおいしく食べたい」という気持ちを実現することが出来るだろうと思います。

何かを感じて頂ければと思います。

2005年1月5日水曜日

禅(座禅)を始めたきっかけ

人の悩みは、自分の中のイメージ現実とのギャップにあるのだろうと思います。そして、「今の自分はダメだけど、この目標を達成したら、ダメな自分ではなくなるような気がする」と、今の自分を否定して、ダメな理由を探したり、目標を探してしまうのかもしれません。

このような『悩み』、或いは『悩みという概念』に、真っ向から立ち向かうのが、禅(座禅)の『かくのごとく』という感覚なのだろうと思います。

悩みの中で、目標を設定して頑張っても、今の自分を否定していては、例え、過去に設定した目標を達成したとしても、結局、その時(すなわち、今)の自分を否定して、過去にそうしたように、『幸せでない理由』『幸せになるための目標』を、再び探し始めてしまうのかもしれません。

何の理由が無くても、今の自分を肯定するためには、どうしたらいいのだろう?」
そんなことを考えていた時、直感的に「座禅だ!」と思ったのが、私が禅(座禅)を始めたきっかけです。また、この辺りのことは、私がカウンセラーとしてカウンセリングを行っていく上で、避けて通ることが出来ないことのように思っています。

このカテゴリーでは、私が禅(座禅)を通して経験したり、感じたり、考えたりしたことを、お伝えできればと思っています。

※過去の私の座禅体験記は、カウンセリングルーム「ピュアハートカウンセリング」の『カウンセラーのエッセイ』の中でご紹介していますので、のぞいてみて下さい。

2005年1月4日火曜日

境界性人格障害(ボーダーライン)という言葉について

「境界性人格障害(ボーダーライン)」という言葉は、最近では、当たり前のように使われるようになってしまっているような気がします。

それは、あたかも、そのような病気?心の欠陥が存在するような印象を与えてしまいます。

でも、それは、その時の状態を表す言葉に過ぎないと思っています。

以前、私が「どん底の状態」だった時、DSM-Ⅳに基づく心理テストを受けたことがあります。

そして、その結果は、境界性人格障害(ボーダーライン)としか思えないようなもので、「自分の心は出来損ないなんだ・・・」と、酷く落胆したことを覚えています。

でも、「どん底の状態」から抜け出した今、その時の自分の認識は誤りだったと思っています。

「境界性人格障害(ボーダーライン)」という言葉は、病名欠陥の名称ではなく、状態のことを指している」と理解するようになりました。

もっと分かりやすく表現すると、健康な心を持っている人が、そういう状態に陥ってしまっている」と言うことが出来ると思っているということです。

そして、別の呼び方をするとしたら、「良くないコミュニケーションの記憶が多い人」ということなのだろうと思っています。

その詳細(原因や抜け出す流れなど)については、このブログ全体(将来書いていくことも含めて)を通して、お伝えしようと思っています。

長く落ち込んでいたり、心が苦しかったりする時、「境界性人格障害(ボーダーライン)」関係の書籍を読むと、恐らく、大半の人は、自分は「境界性人格障害(ボーダーライン)」だと感じてしまうかもしれないと思います。

でも、『たまたまそこにあった「境界性人格障害(ボーダーライン)」という言葉に、たどり着いたことによって、「打ちのめされて、自分らしく生きることを諦める」必要は決してない』ということを強く信じて欲しいと思っています。

そして、このブログやカウンセリングを通して、『あなたらしく生きる』お手伝いが出来ることを願っています。

(たぶん、そんな障害は、この世の中には存在しないのだろうと思います。)