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2005年5月26日木曜日

自分が無い

頂いたコメントをきっかけにして、

「自分が無い」というについて、一般論として少し考えてみたいと思います。


「自分が無い」という事について、コメントの中にも書いてくださっていましたが、

■自分が出せない(自分の意見が言えない)

ということが、まず一つ挙げられると思います。


そのような状態だと、他の人はその人の気持ちに触れることが出来ないので、

「その人の気持ちが分からない」と感じ、

そして、そのことを「自分が無い」と表現することがあるのではないかと思います。


そして、人から同じように「あなた、自分が無いわね」というような事を何回か言われると、

どうしても、「自分がないのかもしれない・・・」と、

錯覚させられてしまうこともあるかもしれないと思います。


この場合、『自分がある』と自分がわかっているから安心かというと、

他の人から「あなたは自分が無い」と言われるのは良い気持ちがしないと思いますし、

また、言いたいことが言えない辛さも、やっぱり感じるだろうと思います。


前置きがとても長くなってしまいましたが、もう一つ考えたことが、

■自分の気持ちが見えなくなっている

という場合があるのかもしれないと思いました。


右を向けば、左側は見え難くなり、左を向けば、

右側は見え難くなります。


これと同じように、意識の方向

相手の方を向けば、自分の気持ちが見え難くなり、

自分の方を向けば、相手の気持ちが見え難くなる

ということがあるのかもしれません。


つまり、「自分が無い」の意味は、

相手のことを大切にしようとする傾向が強い

ということかもしれないと思います。


「相手が気になる」 という言葉で表現される場合もあるかもしれません。


相手が気になると、どうしても、自分の気持ちよりも、

相手の気持ちを想像する時間が多くなるので、

「一 生懸命に想像した相手の気持ち」を話したり、

行動や言葉などもその相手に似てきてしまうのは

自然な事なのかもしれないと思います。


その状況で、「自分を感じたい」と思う場合は、

その時々に、「今、私が気になっている相手は誰なのだろう?」と考えてみようとすると、

その相手のことを一生懸命に考えている自分自身

と出会うことが出来るのではないかと思います。


そして、その出会いは、相手に向いた意識が、左でも右でもない丁度中間(左も右も見ることの出来る位置)に、移動し始めるきっかけになるかもしれないと思います。


あくまでも、一般論として考えてみましたが、

少しでも参考になる部分があればと思います。

2005年5月18日水曜日

心に厳しい家庭

「厳しい家庭」と聞くと、

大体の人は次のような事をイメージするのではないかと思います。


・門限が厳しい

・礼儀に厳しい

・教育にとても熱心

・親が色々な事にうるさく言う

...etc



でも、カウンセラーとして、心のことに関わる中で、

「厳しい家庭」ということのイメージが変わりました。


今回は、そのことについて、少し書いてみたいと思います。


結論をはじめに言ってしまうと、

『共感』を得ることのできる確率の低い家庭が、心にとって厳しい家庭

という事になると考えています。


『共感』が少ないと、どうしても、

共感されなかった人の気持ちは家庭の中で孤立してしまいがちになると思います。



■心に優しい家庭(共感の多い家庭)

・嬉しい時に、一緒に喜んでくれる

・悲しい時に、一緒に悲しんでくれる

・怒った時に、一緒に怒ってくれる

・迷った時に、一緒に迷ってくれる

・自分が「頑張った」と思ったときに、「頑張ったね」って言ってくれる

...etc


これらの頻度が少なくなればなるほど、

心に厳しい家庭である確率は高くなるように思います。


そして、最も厳しい状態が、「無関心」なのかもしれません。

ここで注意が要るのは、

・励ましたり

・代わりに結論を出してあげたり

...etc


することです。


良かれと思ってやってしまいがちな、これらの対応は、

一見、『優しい』ように思えてしまうのですが、

共感が少ないうちにやってしまうと、共感というよりは、

むしろ、「落ち込んでいること」や「迷っていること」を否定する意味を持ってしまうことが多く、

どちらかというと「厳しい家庭」に属するものであるような気がしています。


もし、自分の過去を振り返って、

「自分は恵まれているのに、どうして・・・・」と自分を責めてしまう傾向があるとしたら

『自分の欲しかった共感を100点とした時に、

実際に与えてもらえた共感はいくつだったのだろう?』と考えてみると、


・ひとりで一生懸命にやってきた自分の頑張りに、自分自身が気づいたり、

・頑張ってきた自分自身を労わってあげることが出来るようになったりする


きっかけになるかもしれないと思います。


また、もし、あなたが親の立場で、

子供さんのことで困ってしまう状況に置かれているとしたら

、難しいことをあれこれ考える前に、

『自分は子供の色々 な気持ちに、きちんと共感できているだろうか?』と、

もう一度、振り返ってみると、

これからのヒントに気付くきっかけになるかもしれません。



「考え方や感じ方が違う」ということと、

「共感できる/できない」ということは、

全く次元の異なることなのです。


相手の考えは、説得などを通して変 えることは出来るかもしれません。


でも、相手の気持ちは、それを理解しようとすることしか出来ないのだろうと思います。


そして、もし、変わることが必要だ としたら、

共感される中で、相手の気持ちは自然に変わっていくものなのかもしれません。

2005年5月15日日曜日

身に付いてしまった反応

相手からの刺激 → 自分の反応 → 相手への刺激 → 相手の反応 → 相手からの刺激 → 自分の反応 → 相手への刺激 → 相手の反応 → 自分への刺激・・・・


と書いてみると、

途中のある部分で区切ってみた時、

「相手の反応によって自分が反応しているのか、

自分の反応によって相手が反応しているのか」ということが、

「鶏が先かたまごが先か」みたいな感じでわからなくなってしまうと思います。

(少し、無理矢理な説明ですが・・・(苦笑))


「自分は、場所が変わっても、なぜかいつも周りから同じような扱いを受けてしまう・・・」

というように感じることって、あるかもしれません。


それが、自分にとって好ましい扱いであれば、何の問題もないと思います。


しかし、それが、自分にとって好ましくない扱いであれば、

もしかしたら、そんな風に同じような扱いをする人たちばかりが居る世間をうらむような感覚を抱くこともあるかもしれないと思います。


はじめの部分に書いたことは、そんな状況から抜け出す為のヒントを与えてくれているような気がします。


例えば、次のような感じです。


【相手の行動】怒る  ⇒  【自分の反応】おどおどする

繰り返し怒られ続けていると、おどおどした態度が身についてしまって、次のような流れを作ってしまうことがあると思います。

【自分の行動】おどおどしている ⇒  【相手の反応】怒こる

もともとは相手の行動に対する反応の行動(おどおどする)であったものが、逆に、相手にその反応(おどおどする)の元となる行動(怒る)を呼び起こしてしまうようなところがあるかもしれないと思います。

『「怒る」⇔「おどおどする」』というのは、あくまでも例えで、他にも、もっとたくさんのパターンがあるだろうと思います。

もし、あなたが、「自分にとって好ましくない扱いを受けることが多い」と感じているとしたら、あなたがそうさせているのではなく、あなたの意図しない行動がそうさせていると考えることが出来るのかもしれません。


だから、特にあなたの本質を変えようとしなくても、行動や反応のパターンを変えようとすることは、あなたの望む状況を手に入れる手助けをしてくれるのかもしれないと思います。

2005年5月14日土曜日

コミュニケーションにおける傾向性

「過去の自分にとっての重要な人間関係の中で、

どのようなコミュニケーションを多く経験したのか」ということが、

その人のコミュニケーションの傾向性のある部分に影響している場合もあるかもしれません。


●聞き役

・相手の言っていることを理解することが重要

⇒相手が言っていることを理解することで満足する(できる)傾向を持っていることがある


●話し役

・自分の思っていることを相手に話すことが重要

⇒自分の思っていることを話すことで満足する(できる)傾向を持っていることがある


もともとのコミュニケーションの目的は、

お互いの気持ちを同じ程度わかりあうことではないかと思っています。


その為には、コミュニケーションのバランスが取れていることが重要で、

流れにしてみると次のようになると考えています。


【コミュニケーションのサイクル】

*サイクル1*

①Aさんが、自分の気持ちをBさんに伝える

②Bさんが、Aさんの気持ちを受け止める

③Bさんが、Aさんに、Aさんの気持ちを受け止めたことを伝える

④Aさんが、Bさんが自分の気持ちを受け止めてくれたことを理解する


*サイクル2*

⑤Bさんが、自分の気持ちをAさんに伝える

⑥Aさんが、Bさんの気持ちを受け止める

⑦Aさんが、Bさんに、Bさんの気持ちを受け止めたことを伝える

⑧Bさんが、Aさんが自分の気持ちを受け止めてくれたことを理解する


このコミュニケーションの2つのサイクルを、大切に繰り返していこうとすることが、お互いの気持ちを大切にすることにつながるのではないかと考えて います。

逆に、このサイクルが崩れていくと、『分かり合えない』という心境に陥ることにつながってしまうのではないかと思います。


もし、自分のコミュニケーションの傾向性に偏りがあると感じた場合、もしかしたら、このサイクルを崩すことにつながってしまっているかもしれませ ん。

なぜなら、満足することで、その人は、コミュニケーションのサイクルの次のステップを必要としなくなってしまうかもしれないからです。


【自分の傾向】

自分に『聞き役』の傾向があるとき

相手に、自分が理解したことを伝えることが疎かになることがあるかもしれません。

そして、理解したことを伝えるついでに、自分の気持ちを伝えてみようとしてみると、コミュニケーションのサイクルを正しく機能させることを助けてくれるかもしれません。


自分に『話し役』の傾向があるとき

相手が、自分のことを理解したかどうかを受け止めることが疎かになっていることがあるかもしれません。

そして、理解してもらったことを受け止めたついで に、相手の気持ちも聴き出そうとしてみると、コミュニケーションのサイクルを正しく機能させることを助けてくれるかもしれません。


【相手の傾向】

相手に『聞き役』の傾向があるとき

相手に、「これが私の気持ちなんだけど、こんな話を聞いて、あなたはどう思う?」とか、「ところで、あなたは、どう思っているの?」などと投げかけてみると、コミュニケーションのサイクルは、より良いものになるかもしれません。


相手に『話し役』の傾向があるとき

相手に、「あなたの気持ちは良く分かったわ、今度は私の思っていることを聞いて欲しいの」と投げかけてみると、コミュニケーションのサイクルは、より良いものになるかもしれません。

また、『聞き役』や『話し役』傾向性のことは横に置いておいて、コミュニケーションが上手くいかないと感じたときは、コミュニケーションのサイクルを、点検してみると、何かヒントがつかめることもあるかもしれないと思います。

2005年5月13日金曜日

認める・認めない

頂いたテーマについて考えてみます


【テーマ】

・人を見下したり見下されるのは何故?

・認める事を心理学的に教えて欲しいです

・恥ずかしさについて

・人に合わせてしまう


1.人を見下したり見下されるのは何故?

これは、まず、次のように読み替えてみると、少し分かり易いかもしれません。

○人を見下す

○人から見下されたように感じる



「見下す」については、


その個人の価値観によって評価出来ないものは排除しようとすること、と言えると思います。

つまり、何か原因を求めると したら、それは、見下す人の側にある可能性が高いのです。

どうして、自分の価値観以外のことを認めることができないのだろう?

そこには、そうならざるを得 ない背景があり、そして、それが、他の人の価値観を受け入れることの出来ない人の苦しみでもあると思います。

とはいえ、実際に見下された人は、やっぱり、 傷つくと思います。でも、他に安心させてくれる人がいれば、きっと、「見下すのはその人だけなんだ」と思えて、気持ちが楽になることを助けてくれると思い ます。


「見下されたように感じる」については、

もし、相手が、本当は見下していないとしたら、その人の言葉や表情や仕草などによって、過去に「見下された」と感じてつらかった時の気持ちを思い出してしまった状態、ということが出来ると思います。

「この人は私のことを見下している」と感じた本当の相手は誰なのでしょう?

自分が一番認めて欲しいのに、認めてもらえない人(認めてもらえなかった人)が誰なのかを考えてみると、自分自身の本当の気持ちや、目の前に居る人はその人ではないという事に気づくかもしれません。


2.認める事を心理学的に教えて欲しいです

自然の中で、何もすることもなくボーっとしていると、ありのままの自分が、自然に抱かれているという感じを感じたことはありませんか?

「認める」「認めない」ということの以前に、もともと、人を含めて、この世のあらゆるものは、そのままの状態で自然は受け入れてくれていると いうことなのだろうと思います。

そのように全てが受け入れられている状態から、何かを排除しようという風に働く力を、時に「認めない」という言葉で表現す ることもあるのだろうと思います。

逆に、「認めない」ということを感じない状態なら、それは、「認められている」というように理解できるのかもしれませ ん。


さて、そこでポイントとなるのは、「なぜ、その人は、『認めない』のか?」という事です。

たぶん、「認めることが出来ない」と理解した方が、分かり易いかもしれません。

本人は意識していないことが多いのですが、それを認めてしまうと、自分自身の何かが否定されることにつながるような錯覚を持ってしまっているのだろうと思います。

心理の用語を使うとすると『防衛機制』が働いていると言えると思います。

少し分かり難かったかもしれませんが、簡単に言うと、認めない人は自分自身に対しても、そのことを戒めながら頑張ってきた人と言えるような気がします。

つまり、「認められないこと」は、その人の苦悩そのものなのかもしれません。


余談ですが、「認めない」力として働くものは、「社会」や「文化」や「その時の社会の知識レベル」などというものもあります。

でも、結局は、それら は、ただの流行でしかないのです。

そして、それは、真実を語っているわけではないと思います。

コペルニクスかガリレオか忘れてしまいましたが、「それで も、地球は回っている」と言ったのは、流行と真実とのギャップに、正しい人が苦しんだということだろうと思います。


だから、「正しい」「正しくない」ということは、そんなに重要ではないのかもしれません。

そして、一番大切な事は、「自分にとっての安心できる場所や相手を見つけること」のような気がします。



残りのテーマ

・恥ずかしさについて

・人に合わせてしまう

について、軽く触れると、どちらも「自分の気持ちを表現し難い状態」の時に、恥ずかしそうに見えたり、恥ずかしいと感じたり、その結果相手のペースで事が運んでしまって、「人に合わせてしまう」と感じる状況になってしまうのかもしれません。


これも、前の2つのテーマと同じように、「『自分の気持ちを表現することが難しい』と感じている一番身近な相手は誰だろう?」ということを考えてみると何 かに気づくきっかけになるかもしれないと思います。

もしかしたら、それは、自分の気持ちや感覚を表現した時に、「受けとめてもらえた!」となかなか感じさ せてくれない人なのかもしれません。

最後は、少し手抜きで、ゴメンナサイm(__)m


少し寝ぼけながら考えているので、文章が分かり難かったり、論理がおかしいところがあるかも知れませんが、何か参考になる部分が、少しでもあることを願っています。

2005年5月10日火曜日

子供の眺め方

赤ちゃんは、必要最小限のこと以外は、

ほとんど何も出来ない状態で、この世に生まれてきます。


そんな赤ちゃんが、一人前の人間に成長していく流れを、親がどのように受け止めたら良いのかということを、少し考えてみました。


生まれた頃は、ほとんど何も出来ないことは、恐らく、無条件に受け入れることが出来ると思います。

そして、「笑った」とか、「手を握った」とか、 「寝返りをうった」とか、「頭を持ち上げた」とか、「座った」とか・・・・、新しいことが、ゆっくりとしたペースで出来るようになる毎に、お父さんやお母 さんは、とても嬉しい気持ちで、赤ちゃんのことを褒め称えることだと思います。

つまり、子供は、新しい何かを出来るようになることで、親が、それを褒めるという行動をしながら喜ぶための口実を与えてくれる、ということなのだろうと思います。


また、赤ちゃんが、何も出来なかったことを思い起こせば、各成長の段階ごとの、子供の全ての行動は、『できるようになったこと』であるという見方が出来るのかもしれないと思うようになってきました。

つまり、「例えどんな行動をしたとしても、それは成長の証かもしれない」ということです。


ところが、時折、「~ができない子供」ということを意識することがあります。


その理由を考えてみると、たぶん、親の基準が、『無力であった赤ちゃん』から、『親の価値観/社会の価値観など』に変ってしまうタイミングにそう思うのかもしれないという気がしました。


それと、もう一つ、


赤ちゃんの頃は、親がどんなに焦ったとしても、赤ちゃんの成長のペースを変えることは出来ないと思い、それを受け入れているのだろうと思います。

親がいく ら望んでも、赤ちゃんは、笑う時にしか笑わないし、首が据わるときにしか首は据わらないのです。

そして、子供のペースで、だんだんと出来るようになってい くことを、心配しながらも見守っているのだろうと思います。

ところが、子供のペースでは、ダメに感じてしまうタイミングに、そう思うのかもしれないと思いました。


「いずれできるようになること」「子供の人生には実は必要ないかもしれないこと」を、その時に、「できない」と評価してしまうのは、たぶん、「親のあせり」の表れのような気がします。


「何で、私はあせっているの?」と、親が自分自身に問いかけてみると、親は、もともとの自分自身の苦しみから解放され、子育てが、もっと楽しいものなっていくのかもしれません。


■子供は、新しい何かを出来るようになることで、親が、それを褒めるという行動をしながら喜ぶための口実を与えてくれる存在


少し心に余裕があるときに、そんなことを思ってみると、良いかもしれません。


というようなことを、


うちの2歳の息子が、蟻ではない虫を見つけて、「おとうちゃん、ありだよ!」



と言ったのを聞いて考えていました。



「そうだね、アリみたいな虫だね!」(^o^)丿




今回の文章を考えながら、

『プラス思考』とか『マイナス思考』ということの根本は、

ここにあるのかもしれないと思いました。


・プラス思考 = 本人重視

  本人の大切な事と本人のペースを尊重する


・マイナス思考 = 世間体重視

  本人の大切な事と本人のペースも軽視する

それが、他人に対してであっても、自分に対してであっても・・・。


2005年5月6日金曜日

途中!?

このタイトルについて、

どのカテゴリーに書こうか迷ったのですが、

とりあえず、ここに書いてみます。


『途中』



これから書くことは、人生と向き合うに当たって、

とても大切なことを気付く為のきっかけになるような気がしています。


『人生の意味』を考えようとした時に、

「何を成し遂げたのか?」ということに目が向いてしまいがちなように感じています。


○事業を成し遂げる

○子供を一人前に育て上げる

○地位や名誉を得る

○何かの理論や原因を突き止める

○社会を良くする


等など、人それぞれ、思いつくことは、色々あると思います。


これは、「人生の目標を立てて、それに向かって努力する」ということで、

日本の文化においては、当然と思われる生き方のような気がします。


それはそれで、とても大切な事なのですが、『人生の目標』『主』とした生き方をすると、恐らく、ほとんどの人は、今回のタイトルである『途中』というものに遭遇することになってしまうのであろうと思います。


『途中』、それは、『死』に直面するときに起こります。


何かを達成しようとやっていたことを、

『途中』にしたまま、人生を終えなければならなくなるのです。


そして、『途中』だと思うと、きっと、悔いが残るだろうと思います。


【例】

食事をしていて、食事の最中に死を迎えた場合、

・食事を終えることに目が向いていると、「食事の途中で(やり残して)死んでしまった」ということになると思います。

・食事中のあらゆる瞬間に、その瞬間瞬間の動作や感覚や気持ちと、しっかり向き合っていると、「食事の最中に死んでしまった」という表現になるのだろうと思います。


何かが伝わればと思います。


少し、話が逸れるかもしれませんが、


『目標』を立てて、それを実現する為に生きていると、もし、せかっく見つかった目標が、人生の早いうちに実現されてしまった時、新しい目標を探さなければならなくなってしまいます。


言葉で『目標』と書くのは簡単なのですが、「人生の目標としうよう!」と自分自身が思える目標を見つけるのは、結構、苦しいものではないかと思います。

そ して、やっとの思いで目標が見つかったとしても、達成してしまうと、また、次の目標が必要になってしまうのです。

そして、やっぱり、『途中』と遭遇するこ とになるのです。


『人生の目標』は、人生を豊かにしてくれるのは、間違いないことだと思います。


でも、人生そのものを『途中』という言葉を使って表現しない為の、大切なものがあるような気がします。


つまり、『人生の目標』は、人生において『副』なのだろうと思います。


そのためには、今まで目が向いてしまいがちだった、「始まり」「終わり」ということから少し離れて、今まで『途中』だと思ってきたことを大切にしようとすると、人生においての本当の『主』となる何かに気付くきっかけになるかもしれません。


●家に帰る途中

●ごはんが始めるのを待っている間

●社会に出たら・・・

●子供が大きくなったら・・・

●出世したら・・・

あなたには、このような言葉で、

『途中』扱いしてしまっている時間はありませんか?


『途中』に目を向けることが、

人生を『途中』で終わらせない為に大切な事なのかもしれません!?


禅問答的に言えば次のようになるのではないでしょうか・・。


『途中のあなたは誰なのですか?』

2005年5月5日木曜日

満足を感じる時の傾向

自分が、どんな状況で納得感や満足を感じるかを考えた時に、

ある傾向があることに気付くことがあるかもしれません。


前回と前々回のテーマ『馴染み深い「方法と収穫」』で書いたことの焼き直しになるかもしれませんが、少し書かせて頂こうと思います。

簡単におさらいすると、
○人には、子供の頃に、両親や養育者などから、多く受け取ることができた愛情を、大人になった後も、無意識のうちに求めてしまう傾向がある。
○その与えられた愛情が、自分が本当に望んでいたものと異なっていても、あたかも自分の望んでいたものであるかのように自分を錯覚させながら、それを受け入れてしまう。
そのようなことを、2回に渡って説明させて頂きました。

そのことが、今の自分にどのように影響しているのかを知るには

「自分は人とのコミュニケーションにおいて、どのような時に満足する傾向があるのだろう?」

と考えてみると良いかもしれません。



ただ、それは、


・自分にとって、あまりにも当たり前のこと

・そして、理由なく満足を感じることなので、


意識しなければ、「その満足は、自分に特有のもの」ということには、

なかなか気付くことが出来ないだろうと思います。



ちなみに、私の場合は、

・相手の話を自分が理解できた時に、満足を感じる傾向がある

という事に、カウンセリングに携わるようになってから気が付きました。

これは、

・自分の話は聴いてもらえずに、母親の一方的な話を、ただひたすら聴き続けなければならなかった

という子供の頃の経験が影響しているような気がします。


その『満足感』は、心に染み付いているので簡単に手放すことは出来ないし、

それで満足できることも確かな事なので、

手放なさずに大切にとっておいても良いものだと思っています。



そして、過去の自分と、今の自分の違うところは、

「相手の話を理解することで満足する」以外に


・自分の気持ちを、相手に伝えることで満足しても良い

・自分の気持ちを、相手に聴いてもらうことで満足しても良い

・自分の気持ちを、相手に受けとめてもらうことで満足しても良い

・自分の気持ちに、相手が応えてくれることで満足しても良い


などなどに気付いているということです。


気付いているから、「相手の話を理解する」という昔からの方法で満足を得ながらも、

たまには、それ以外の新しい満足をつまみ食いすることもできるのです。



少し毛色が違うかもしれませんが、

『満足』につながるかもしれないことを少し挙げてみます。


・お金を貰うこと

・物を買ってもらうこと

・褒めてもらうこと

・評価されること

・面白いと思ってもらえること

・笑ってもらえること

・優しく見守ってもらえること

・・・

たぶん、満足の種類は、人の数だけあるのだろうと思います。


そして、それは、「過去にどのような事で満足しなければならなかったか」ということに囚われている部分は、たぶんあると思います。


だから、「それで自分が満足できる」ということを活用しつつも、

それ以外にも、「自分が満足出来ることは、きっとあるだろう」と考えてみることは、

『新しい満足』『自分の本当の気持ちが望んでいる満足』

手に入れるきっかけになるかもしれないと思います。


2005年5月4日水曜日

馴染み深い「方法と収穫」(その2)

前回の『手に入れようとすること』に続いて、

今回は、『手に入れるための方法』ということについて、考えてみたいと思います。

前回の内容の振返り
○自分の本当の願いを諦め、
○実現できる程度に抑えた願いをかなえる経験を繰り返すと、
○妥協せざるを得なかった環境から離れた後でさえ、本当の願いを棚上げしたままにして「妥協したた願い」を無意識のうちに求めてしまう
という状況に陥ってしまっていることがある
【前回の補足】

特に、小さい頃に、大きな影響を受けざるを得なかった人(お父さん、お母さん、養育者など)からの愛情に関わる部分が重要ではなかと考えています。

そして、「本当の願い」が「妥協してしまった願い」に落ち着いてしまうのは、本人の責任というよりは、その愛情を与える側の人たちの能力が関係していると思っています。

親と子、或いは、人間と人間の心のせめぎ合いの中で、与える側の人がギリギリまで頑張って与えることが出来た愛情が「妥協してしまった願い」なのだろうと思います。

それ以上のものを与えることが出来ず、そして、それ以上のものを得ることが出来なかったから、妥協せざるを得なかったのだろうと思います。


ここでは、親や養育者などの能力が関係していると言っているだけで、親や養育者などに問題があると言っているのではありません。

親や養育者も、子供の頃に、本当の願いを我慢せざるを得なかった状況がきっとあっただろうと思います。

そして、その親も、そのまた親も・・・・。


(「我慢は、世代をまたいで伝染する」と表現できるかもしれません。)


だから、誰かの責任かというと、誰の責任でもないのだと思います。

子供の心が傷ついていたら、きっと、その親や養育者の心も傷ついているのだろうと思います。


だから、自分の「心の傷」の原因を探して責めようとするのではなく、その心の傷を自分の子供に伝えないようにすることが大切だと思います。

その為には、自分の立場が「親」や「子供」であるということとは関係なく、まず、自分自身が「我慢してしまっている本当の願い」に気付こうとし、そして、癒されようとすることが、とても大切なことだと思います。



前回の補足が長くなってしまいました。

それでは、今回のテーマに移ろうと思います。



●手に入れるための方法


「欲しいものは、手っ取り早く手に入れたい」と思うのは、当然のことだと思います。

だから、「自分の願い」を繰り返し求めるうちに、それを効率的に手に入 れる方法を見つけ、身につけていくことも、普通にあることだと思います。

そして、その行動を繰り返しているうちに、「その行動は、『自分の願い』を叶えて くれるだろう」と、行動と予測される結果との結びつきが強くなって、その行動をすると、何となく「良いことが起こるような気がする」という予感を感じるようになっていきます。

だから、「満たされない」と感じたときは、気付かないうちに、「満たされるかもしれない」と感じさせてくれる馴染み深い行動をすることは、多いと思います。

ここで、大切な事は、その結果として、「本当の願い」が叶えられるのか、それとも、「妥協した願い」が叶うことになるのかということだと思います。



【例】

本当は、「自分が話したいときに、じっくりとその話を聴いてもらうことで愛情を感じたい」と願っていたのに、それが叶えられなかった場合、次のような状況になってしまうことがあるかもしれません。

○自分が他人から評価されたときだけ、親に褒めてもらえた

  → 良い評価をされると褒めてもらえそうな予感がして、いろいろな場面で手が抜けない

○自分に対して無関心な親が、悪いことをした時だけ、叱り付けるという関わりをしてもらえた

  → 自分の気持ちが満たされないと感じたときに、相手を怒らせるような事をしてしまう


この例の場合は、本当に叶って欲しい願いは、成果を評価してもらうことでも、怒られることでもないと思います。

あまり、上手い例ではなかったかもしれませんが、雰囲気を感じてもらえたらと思います。


【補足】

そのような行動によって「妥協してしまった願い」しか実現出来なかったのは、実は、過去の環境に限られたことだと気付くことは、小さい頃には難しかったけれど、今は、「もっと、自由に望んでも大丈夫」と思うことを手伝ってくれるかもしれません。


心に「何となく満たされないような感じ」を感じているとしたら、もしかしたら、「妥協した願い」を求めてしまう傾向があるのかもしれません。

そんな場合 は、「自分には『パターン化された行動』はあるだろうか?』と、ちょっとチェックしてみることは、何かの役に立つかもしれません。

もし、パターン化された 行動に気付いたら、「その行動によって、今まで得てきたことは何だろう?」と少し振返ってみると、共通点のようなものが見えてくるかもしれません。

そし て、その共通点を、じっくりと眺めようとすることは、「妥協した願い」や「本当の願い」に気付くことを手伝ってくれるかもしれないと思います。


「本当の願い」に気付いた時、今までの行動パターンを変える必要性に迫られることがあるかもしれません。

でも、今までの行動を変えるということ は、とても勇気が必要なことだと思います。

なぜなら、今までの行動パターンを繰り返していると、「自分の願いが、きっと叶うだろう」と感じていることが出 来るからです。

そんな、ある意味自分の気持ちを安定させてくれる大切な行動を手放そうとすることは、とても苦しく感じてしまうこともあるかもしれないので す。

ですから、無理に手放そうとしない方が良いかもしれません。



その気持ちや行動を大切にしながら、


「気付くことが出来た『本当の気持ち』」を大切する為の新しい方法を、たまに、つまみ食いしてみる


誰かに心の支えになってもらいながら

そんなつまみ食いを、少しずつ繰り返しているうちに、

新しい方法が、だんだんと心に馴染んでいくのだろうと思います。


そして、それは、『叶いそうで叶わない予感』の呪縛から抜け出し、

『叶える喜び』を手に入れることにつながるのかもしれません。


馴染み深い「方法と収穫」(その1)

人には、意識しないところで、

次の2つの傾向性を身につけてしまっているところがあるように思います。


○特に意識していなければ、これまで慣れ親しんできた行動を、無意識のうちに繰り返してしまう

○その行動によって、過去の試行錯誤の結果、もっとも手に入れることが多かったことを、無意識のうちに求めてしまう


この2つをまとめると、

『今まで手に入れることができたことと同じものを、今までと同じ方法で手に入れよう』

と無意識に反応してしまう傾向があるという表現になります。


『1.手に入れようとすること』、『2.手に入れるための方法』という2部構成の第1回目として、今回は、『手に入れようとすること』について、詳しく考えてみたいと思います。


●『手に入れようとすること』について

本来ならば、『自分が手に入れたいもの』そのものを手に入れることが、最も望ましいことであることは、明らかな事です。

しかし、思い通りにならないのは世 の常で、人は、なんとかそれを得ようと試行錯誤を繰り返す中で、たまたま、「これが望んでいたことかもしれない・・・」というものを得る経験をします。

そ して、再び試行錯誤を繰り返し、『何かを得る』という経験を積み重ねていきます。

そうする中で、自分が望むことで手に入れることができることを、経験的に学んでいきます。

そして、手に入れることができることを、効率的に手に入れようとするようになっていきます。


つまり、望みそのものが、知らないうちに、次のような流れで割り引かれていくということを意味しています。



◇自分が本当に手に入れたいもの
      ↓
◇自分が本当に手に入れたいものに近いもの
      ↓
◇自分が本当に手に入れたいものではないが、無いよりはマシと思えるもの



ですから、今、あなたが「私は、こう望んでいる」と思っていることは、

実は、あなたの本当の気持ちではない可能性があるのです。


【例】

本当はお父さんやお母さんにゆっくり話を聴いてもらうことで、愛情を感じたいと思っていても、

○忙しくて話は聴いてもらえないけどお金はくれるお父さんだったら、お父さんに対しては、お金を貰うことで妥協してしまうかもしれません。

○また、何か、ものを買ってもらうことで妥協してしまうかもしれません。

○自分の話ばかりをするお母さんだったら、構ってもらえないよりはマシなので、お母さんの話を聴くことで満足しようとするかもしれません。

○子供に無関心な両親だったら、褒められようと努力したり、無視されるよりマシなので怒られようとするかもしれません。

他にも、たくさんの状況はあると思います。


そして、育った家庭や環境を離れた後でも、自分が満たされないと感じたときに、本当は大人になったことによって、もっと自由に望むことが出来るなずなのに、小さい頃に馴染み深かった『愛情の代替物』を、やっぱり得ようとしてしまうところがあるのです。


自分が満たされないと感じたときに、相手にどんなことを求めるかという傾向を見つめてみると、愛情の代わりに求めてしまっていたことや、我慢してしまっていた本当の望みに気付くきっかけになるかもしれません。


また、もし、「何かを望むことが実現しても、なぜか満たされない・・・」という感覚があったら、「自分が本当に望んでいることって何なのだろう?」、「私は、一体何を我慢しているのだろう?」と、ゆっくりと見つめてみようとすることは、大切な事かもしれません。