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2005年8月11日木曜日

オール・オア・ナッシング

今日は、私の知人のカウンセラーのブログを訪れてみました。

心理 カウンセリングコラム16 オール・オア・ナッシング

その内容に刺激を頂き、関連した事を少し書いてみようかと思います。


「オール・オア・ナッシング」をもう少し日本語的にすると、


・物事の道理が少しでも崩れていると感じると、それを受け入れる事が難しい

・完全でなければ満足できない。

・不完全だと、耐え難い不満足感に見舞われる


というような表現になると思います。


「白か黒かの両極の評価しかなく、

間のグレーな部分が認められない」という風に表現される事もあります。


でも、その時に考える完璧完全が、

実は、グレーだったりするのです。

(今回は、詳細の説明は省略します)


ですから、もし、「全てか無か的な思考」の傾向があることで、人間関係や生活に不自由さを感じているとしたら、

○どうして自分は、グレーな部分を、白(完全)と考えるのだろう?

○どうして自分は、グレーな部分を、黒(不完全)と考えるのだろう?

と考えてみると、これまでとは違った見方が出来るかもしれないと思います。


他にも沢山書きたい事が浮かんできているのですが、

また、別の機会に書きたいと思います。

(今回は、トラックバックしたかっただけですので・・・ (^_^;) )

2005年8月9日火曜日

家庭にあるかもしれない深刻な問題

人は、『社会』というものを形成して生活しているところから考えると、

サルや馬たちと同じように、生まれながらにして『群れ』を作りたいという習性(気持ち)を持っている動物なのだろうと思います。


そして、他者が「自分と同じ空間」と感じる領域に存在すると、

無意識にその心理が本能として働いて、

何らかのコミュニケーションを通して関係性を築きたくなるのが、

『人の性(さが)』なのではないかと考えています。


そんな事を踏まえて、今回は親子関係を中心に、

私なりに考えてみたい思います。


現代の日本では、サラリーマンの父親は、

どうしても、家庭において不在になってしまいがちなところがあります。


それは、父親の問題というよりは、

今 の日本社会のシステムによって引き起こされているという見方も出来るかもしれません。


そんな状況の中で、父親と家族(特に父親と子供)とのコミュニケー ションに何らかの問題が発生しまっても、そんなに不思議ではないように感じます。

また、その問題が、社会の仕組みにより引き起こされているとしたら、父親 だけの努力で解決しようとするのは、とても困難なことかもしれません。

ですから、まず、家族の全員が、今の日本社会、或いは、近代社会においては、家庭問題が発生しやすい基盤が、家庭以外の要因によって、既に出来上がってしまっているということを理解し、次に、それを回避するために、お互いがどのようなことで協力し合えるのかという意識を持とうとすることが大切なのです。


■現代の日本で、『家族の全員にとって居心地の良い家庭』を作っていくために


現代社会では、子供にとって、父親とのコミュニケーションは、日常ではなく、非日常のことになってしまっています。

(朝と夜や休日といった限られた時間、すなわち、子供とっての非日常にしか、父親は存在しないということです。)


ですから、極論すると、父親と子供の関係は、親子になった時点で、既に、社会のシステムによって破壊されているといえ、喧嘩しているのと同じような状態になっているのではないかと感じています。

(もちろん、そんな中で、良好な関係を築き上げておられる家庭が沢山あるのということも事実です。)


ですから、家庭において最優先されるべき課題は、『父親と子供のコミュニケーションの修復』であると私は考えています。

家族の間には、家という空間を共有することから、前に説明した「コミュニケーションを持ちたい」という気持ちは常に働いているだろうと考えています。

ですから、コミュニケーションが壊れている状態においては、本人たちが意識できていなくとも、壊れたコミュニケーションを修復したい、つまり、仲直りしたいと願っているのだと思います。


そこで重要な役割を果たすのが母親の存在なのです。

多くの子供たちにとって、母親は、非日常ではなく、日常の存在です。

母親は、子供たちの気持ちの中では、一番身近で信用できる存在です。

その子の母親であるという事実は、子供にとって、何者にも勝る偉大な存在であるこということを意味するのです。

そんな位置づけである母親だからこそ、仲直りをしたがっている父親と子供に対して、協力してあげられることは、沢山あるだろうと思います。


■愚痴

母親が話す「母親の父親に対する感情」は、良いものであれ悪いものであれ、多くの場合、子供は正しい事として受け止めてしまいがちです。

ですから、母親は、ただの愚痴のつもりでも、仲直りの手伝いをしないままに、子供に父親に対する不満を繰り返し話していると、それが、父親の真実として子供の心に刻まれてしまうこ とがあります。

そして、子供は、自分の「本当はお父さんと仲良くなりたい」という気持ちに気付けないままに、お母さんと同じように、お父さんの悪口を言う ようになってしまいます。

お父さんの悪口を言って、お父さんを悪者にすることによって、「自分が苦しいのは、お父さんのせいだ」とさえ思わせてしまい、自 分の本当の気持ちが、ますます分からなくなってしまうのです。


母親の不満や父親の不満はどうであれ、子供は、「両親が大好きなお父さんと大好きなお母さんでいて欲しい」と願っているということを、父親も母親も肝に銘じておく必要があると思います。


愚痴を言うと、少しはストレスの解消が出来るかもしれませんが、現実が望ましく変化することは、ほとんどありません。

ですから、

○母親は愚痴るよりも、実際に満足する為の方法を考えようとすることが、自分の為にも、子供の為にも大切なことなのです。

○父親は、母親が家庭において満足を感じられるようなコミュニケーションにつとめること、そして、もし、不満 を感じていることを知ったら、その不満を解消する為に協力しようとすることが大切だと思います。それは、「母親のため、子供のため」ということだけではな く、自分にとって、家庭がより心地の良い場所になっていくことに、きっと、つながるだろうと思います。



■協力という名の非協力

父親の存在が非日常であることから、父親と空間を共にする時に、子供が居心地の悪さを感じ、父親と距離をとりたがることがあるかもしれませません。

ですが、そこで、母親が、子供が父親を避けようとすることに加担してしまうと、子供は意識できていないけれど、心の中に確かに存在する『仲直りしたい』と いう気持ちを、無視してしまうことになってしまいます。

また、父親との間に感じる居心地の悪さと向き合わないで放置する事も、正当化してしまいます。


その時は、母親の協力で、父親との距離が取れたとしても、「父親との間に感じる居心地の悪さ」という子供の気持ちが、根本的に解決される事はありません。

居心地の悪さを解消する為には、自分の本当の気持ちに向き合い、それを実現する方法を考えるしかないのです。

しかし、その本当の気持ちと向き合わせてもらえなかったことその居心地の悪さが正当化されてしまったことによって、いつしか、本人が意識しないところで、『自分の人生には、モヤモヤした解決することができない苦しみがある』と信じてしまうことにつながる恐れがあるのです。


これは、とても深刻なことです。


その後の子供の人生において、自分の気持ちを大切にすることで解決できそうな、ちょっとした問題によるストレスでも、そのモヤモヤした感覚に組み込まれてしまうので、自分の本当の気持ちと向き合うことが出来なくなってしまい、自分の本当の気持ちが分からない自分の願いが叶うことは無いと いうことを感じるようになる心配があります。


そして、問題と感じる事に直面するたびに、モヤモヤとした感覚が勝手に増幅してしまう心のパターンが出来てし まいます。

また、何も問題が無い時でさえ、そのモヤモヤは、心に重くのしかかるようになり、いつも、それに押しつぶされないように踏ん張っていなければな らないような状態につながってしまうかもしれません。

そんな苦しい人生の種を、子供に与えてしまう恐れがあるのです。


また、本当の気持ちは、「仲直りしたい」、「仲直りできない苦しみから助けて欲しい」と願っているのに、逆の方向に協力されることは、それが親の善 意の気持ちからであったとしても、苦しみという心の傷に塩を擦り込むようなことになってしまう恐れがあるのです。

そして、子供のそんな経験は、自分が苦しい時に、そこから抜け出すために協力してくれる人は居ないというような、孤独感人間不信感にもつながってしまうのではないかとも考えています。


■結論

唐突かもしれませんが、子供の幸せな人生を思うのなら、何はともあれ、夫婦仲睦まじくなのだろうと思います。

もし、あなたの中に、「子供は私の味方」に近い感覚があるとしたら、黄色信号です。家族のコミュニケーションについて、もう一度、ゆっくりと見つめ直そうとすることは大切かもしれません。

2005年8月8日月曜日

親の「慣れ」とその影響

最初の子供を育てるということは、

親にとっては、「初めての驚き」の連続だろうと思います。


そして、2人目、3人目・・・となってくると、

いろいろな意味で、慣れてくるのは、普通のことだろうと思います。


この「驚き」と「慣れ」について、少し考えてみようと思います。

・新しく経験することとして、ちょっと思いつくことを、少し書いてみます。


1.喜びや驚き

 ・子供が存在するだけで感じることの出来る幸福感

 ・子供が何かが初めて出来たときの喜び・驚き

2.不安や苦しみ

 ・子育ての不安

 ・子供が自分の思い通りに行動してくれない事によるストレス

 ・自分の時間を大切に出来ないような感覚

3.その他

 ・親が発揮して欲しいと思う能力を子供に感じたときの満足感や、その逆の不満足感

 ・「正しい子育て」ということを考えた時に感じる不安

 ・他の子供と比較する事で感じる優越感や劣等感


他にもいろいろあると思います。

そんないろいろな事に慣れていっているのです。


1.喜びや驚き

親は、第一子を育てるときは、

・どのタイミングで何が出来るようになるのだろう?

・うちの子供は、本当に、それができるようになるのだろうか?

などという気持ちの中で、子供を見守っているのではないでしょうか。

そんな気持ちの中で、子供を見つめる視線は熱く、また、それができるようになったとき の喜びも大きいものです。

でも、第一子を育てる中で、子供がどのように成長していくのかが、何となく分かってしまうところがあると思います。

すると、第二 子以降は、「もうそろ~ができるだろう」なんて予測がついてしまうので、どうしても、その喜びには差が出来てしまうように思います。


例えば、弟が、「ボクが自転車に乗れるようになった事、お父さんやお母さんは嬉しくないんだ・・・」なんて言ったとします。

親は、喜んでいるつもり なので、「何言ってるの、嬉しいわよ(微笑)」と言うかもしれません。

もしかしたら、「お兄ちゃんが出来るようになった時も、こんな感じに喜んだはずだけ どなぁ・・・」などと、過去の自分の反応を振り返ることがあるかもしれません。


でも、これは、親の論理な のだろうと思います。

弟は、お兄ちゃんと同じ時を生きています。

ですから、このような場面で、親が、お兄ちゃんに対する反応を振り返ることは、実は、あま り意味がないのかもしれません。

もしかしたら、最近、お兄ちゃんが、水泳で10メートル泳げるようになって、親が大喜びしたのを見ていたのかもしれませ ん。

何が言いたいのかというと、弟は、「今、お兄ちゃんが貰っている」と感じている親の喜びと、自分が感じている親の喜びを比較しているのだろうということです。


親が意図していなくても、親にとってはただの『慣れ』も、子供には、『親の愛情の差』として受けとめられてしまう恐れがあるということを理解しておく事は、とても大切だと考えます。


まだ、慣れていない新鮮な事は、いろいろと心に飛び込んでくるだろうと思います。

そして、慣れるにつれて、気付かずに見逃している事も増え、また、 驚きも少なくなっていくのは、自然なことで、仕方ないと思います。そこを、下手に努力でカバーしようとすると、芝居がかってしまってしまい、それを見抜か れて、違う誤解を与えてしまうかもしれません。


ですから、

・いろいろな事に気付いてあげようとすること

・気づいた事には、自然な反応を示そうとすること

・もし、子供が物足りなさのような事を表現したら、親の論理だけで自分の反応を反省したり言い訳したりしようせずに、「子供が何を見て、何を感じていることが、その感覚につながっているのだろう?」というその時々の子供の気持ちに寄り添ってあげようとすること

は、大切なのかもしれません。


親にとっての『ただの慣れ』でしかないことなのに、子供が大人になった後も苦しみ抜いてしまうほどの心の傷を負わしてしまう事になるかもしれないということを深く認識しておく事が大切だと思います。


また、もし、自分自身に何か苦しい感覚があるとしたら、そんな事を考えながら、もう一度、自分のお父さんやお母さんとの関係を振り返ってみると、何かに気付くきっかけになるかもしれません。


すこし、長くなってしまいましたので、「2.不安や苦しみ」と「3.その他」についての詳細は、また、今度にします・・・、

2005年8月4日木曜日

話し方の癖の、もうひとつの解釈

もともと、人は、いろいろな事柄に対して理解したことを、

「他の人にも分かってもらいたい」と思ったときに、

『「自分が理解できた流れ」と同じような流れで話したい』

と思うのが自然なことで、

恐らく、全ての人に共通するスタートポイントではないかと考えています。


しかし、同じポイントからスタートしたはずなのに、

人それぞれ異なった現在の話し方に落ち着いているということについて、少し考えてみました。


そこには、「話し方を変化させざるを得ない事情があった」ということが関係しているのではないかと考えています。

言い方を変えれば、「過去のコミュ ニケーションがどのようなものだったかによって、話し方を変化させている」と表現できるかも知れません。

そう考えた時、もし、今のあなたが、話し方やコ ミュニケーションのことで悩んでいるとしたら、

・「今の自分の話し方やコミュニケーションが悪い」と自分自身を責める事よりも、

・まず、「これまでの自分は、どんな状況の中で、コミュニケーションをとろうと頑張ってきたのか」という自分自身の頑張りに気づいてあげようとすることが大切

と言えるのかもしれないと思っています。


【例】 (あくまでも、ほんの一例です)

■大きな声で話す 

普通の声で話しても聴いてもらえなかったが、大きな声で話すと聴いてもらえた


■ぶつぶつ小声で話す

自分の気持ちを言ったら、否定されたり、逆に、相手の考えを押し付けられる事が多かったが、自信なさそうに話すと、聴いてもらえる事が多かった


■単語でポイントだけを話す

何か話し始めても、話しの主導権を取り上げられ、続きの話をさせてもらえない事が多かったので、伝えたい事を早く言ってしまう必要があった


■なぜか相手の怒らせたり、傷付けたりするような事を言ってしまう

普通に話しても自分の気持ちを聴こうとしてもらえないのに、相手を怒らせたら時だけ自分と向き合ってもらうことができた



これらの例のように、なかなか自分の気持ちが伝わらない中でも、「何とか自分の気持ちを相手に伝えたい」と感じ生み出した、あなたが気持ちを伝えた かった相手に、気持ちを伝える為のとっても効率的な技なのだろうと思います。


つまり、あなたの努力の歴史が集約されていると言っても良いのかもしれませ ん。

そして、その頑張を認めてあげることが出来た時、「本当は、どのように話し、どのように聴いてもらいたいのだろう」ということに気付いたり、「自分 の本当の気持ちを、自分が話したいように慌てずに話しても大丈夫なのかもしれない」と疑い始めたりするきっかけになるかもしれません。