まず、タブーの定義ですが、本来の意味は違うかもしれませんが、現代の人々が使っているニュアンスから
・本当のことだけど言ってはいけないこと
・その場では触れてはいけない話題
と理解して、話を続けていきたいと思います。
最近、テレビに限らずに、他人の発言に、『その発言は不適切だ!』とか、『そんな発言をするべきではない!』と食って掛かる人が増えてきているように感じています。
「そんなこと言わないほうが良いのになぁ~」とかいうような穏やかな感じではなく、発言した人を叩き潰そうとする勢いすら感じてしまうのです。
なぜ、そのような気持ちになってしまうのかについてちょっと想像してみたいと思います。
その環境に少しでもタブーがあると、そこには重大な問題が存在していることを示しています。
そこには、『それを言えば、自分が痛い目に合う何かか起こる』ということを、その環境に存在する大方の人たちが感じてしまっているということです。
ですから、それを言わないように細心の注意を払いながら生活しなければならなくなります。
話は変わりますが、『優しさ』にこだわっている人は、優しいかどうかについてとても注意を払いながら行動しています。
その結果、『優しさ』を実現するために、したくもないことをしてみたり、他の人が優しいかどうかがとても気になったり、してしまいます。
これは、何かが気になる事によって、『我慢し続ける』という状況を発生させてしまっていることを意味します。
そして、その我慢を蓄積させてしまい、終いには、『あなたは全然優しくない!私はあなたにこんなに優しくしているのに!』と相手を責めるようになってしまいます。
話を戻すと、『タブーの番人』となってしまっている人は、発言にすごく気を使いながら暮らしているのかもしれないと思えます。
その背景には、何かを言って、誰かに責められてつらかったような経験があるのかもしれませんし、誰かがそんな目にあっているのを見て、とても嫌な気持ちになった経験があるのかもしれません。
話は、優しさに戻りますが・・・・。
人は、いつもいつも他人に優しくできるわけではありません。
・優しくできるときは優しくしてあげられる。
・優しくしてあげられないときは、優しくしてあげられない。(もっと良いのは、『優しくしてあげられないときは優しくしてもらう。』かなって思います。)
優しくしてあげられない状態に陥った人に対して、あなたが優しくしてあげられるときに、優しくしてあげるのが、本当の優しさのような気がするのです。
地球には、たくさんの人が生きています。
ですから、あなたがつらいときには、あなたの目の前の人に、あなたが優しくしてあげることに、責任を持たなくてもいいのだろうと思います。
「今は、私もつらいから、優しくしてあげられなくてごめんね」と断ってもいいのだろうと思うのです。
なぜなら、あなたの他にも、その人に優しくしてあげられる人がたくさん居るのだから・・・・。
逆に、そんな時は、自分に優しくしてくれる人を、たくさんの人の中から探し出しましょうよ。
今意識している人以外にも、あなたに優しくしてくれる人は、たくさん居るはずですから・・・。
みんな、頑張りすぎないで・・・
2008年2月26日火曜日
2008年2月2日土曜日
ロボットの反乱
SFの映画(例えば、ターミネーター、マトリックス、アイ・ロボット・・・)などで、ロボット(コンピューター)が意思を持ってしまい、人間に対して反乱を起こすといったストーリーがちょくちょく作られます。
それを見ていると人間の形をしたコンピューター制御のロボットが反乱を起こすというのが、共通点としてあるようで、コンピューターの人間に対する反乱はそのような形で起こると、私は思い込んでいたところがあります。
しかし、最近、「コンピューターの人間に対する反乱は、実は既に起こっているのではないか!?」と思うようになりました。
そんな話を書いてみたいと思います。
とりあえず電製品なのですが、昔はその操作はアナログ的といいますか、比較的多くの調整を、それを使う人が自由に行うことができました。
(家電製品オンチの人には煩わしいことだったかもしれませんが・・・)
ですから、例えば、エアコンの暖房で風量を強に設定すれば、容易に強風を吹き出させることができましたし、ステレオの高音や低音の強弱を調整することも容易でした。
しかし、最近の家電製品はそうはいかないものが増えてきていると思います。
・エアコンは、強風に設定しても、エアコン(のマイコン)が、それを妥当だと認めない限りは強風を吹き出してはくれないもの
・ステレオの音質の調整も、予め用意されている「クラッシック・モード」や「POPSモード」などのモードから逸脱した設定を許してはくれないもの
そんな機器が増えてきているように思います。
自動車などもそんな感じの部分があるように思いますし、他にも、探せば色々あると思います。
これは、マイコンのプログラムの仕様の影響を受けているということになります。
その予め想定された仕様を逸脱しては利用できないのです。
調整できる機能がないのと、機能はあるけどその調整はマイコンが勝手にやってしまうというのでは、意味合いが全く異なってくるのではないかと思うのです。
そして、このようなことを『ロボットの反乱』と呼んでも良いように思うのです。
(正確に言うと、人が作ったシナリオへの束縛ということになるのかもしれませんが・・・)
話は少し変わりますが・・・・、
私の『心』に関する結論なのですが、ロボットやコンピューターが意思を持ったように見えることがあっても、それは、所詮、人が組み上げたプログラムがそう感じさせるようになるだけで、『自己』というものを決して持つことはないと思っています。
たとえ、『心』をもつロボットを作ったとしても、それは決して『自己』を持ったことにはならないのだろうと思うのです。
(『心』と『自己』の違いが、上手く説明できていないので分かり難いかもしれませんが、でも、何となく雰囲気的に分かって頂けたらなって思います。)
話を戻します。
マイコン制御が浸透しすぎると、人は、人が作ったマイコンを制御するためのプログラムに適応することに迫られます。
しかし、プログラムは、所詮、人の浅知恵で、それを作る人(或いは、作る集団)の想定以上のものは作ることは出来ません。
(想定外のことがあったとしたら、それはただのバグ(不具合・設計ミス)です。)
そんなものよりも、人が適応すべきなのは、人知を超越した大自然や自分自身ではないかと思うのです。
人間社会に生きている以上、社会に適応していくことは必要だと思いますが、せめて、機械くらいは自分の意志で自由に操作したいものです。
機器以外は、テレビゲームは人が作ったシナリオへの束縛という意味では、象徴的なものかもしれません。
ゲーム中に遊ぶ人の想定外のことが起こったとしても、所詮、作る人が想定したアイディアの一つに過ぎないのです。
結論ですが、ロボットの反乱とは、
■ ロボットが意思をもって人に逆らう事ではないのだろうと思います。
■ 一部の人の考えがプログラムに置き換えられてそれに人が操られるようになること、そして、そんな部分的なプログラムが無数に放出されて社会に蔓延してしまうことではないかと思うのです。
テレビゲームなんかしてないで、遊びたかったら外に出ましょう。
人恋しかったら、人に会いましょう。
音楽が聞きたかったら、コンサートに行きましょう。
たぶん、もう少し時間は掛かるかもしれませんが、今の状態が長く続くと、人の心は自分でコントロールできないモヤモヤが鬱積して、自然にそんな流れも生じるのだろうとは思います。
言いたいことを上手く書けた自信がありませんが、何かを感じて頂けることを願っています。
訳の分からない文章を最後まで読んで下さりありがとうございました。
それを見ていると人間の形をしたコンピューター制御のロボットが反乱を起こすというのが、共通点としてあるようで、コンピューターの人間に対する反乱はそのような形で起こると、私は思い込んでいたところがあります。
しかし、最近、「コンピューターの人間に対する反乱は、実は既に起こっているのではないか!?」と思うようになりました。
そんな話を書いてみたいと思います。
とりあえず電製品なのですが、昔はその操作はアナログ的といいますか、比較的多くの調整を、それを使う人が自由に行うことができました。
(家電製品オンチの人には煩わしいことだったかもしれませんが・・・)
ですから、例えば、エアコンの暖房で風量を強に設定すれば、容易に強風を吹き出させることができましたし、ステレオの高音や低音の強弱を調整することも容易でした。
しかし、最近の家電製品はそうはいかないものが増えてきていると思います。
・エアコンは、強風に設定しても、エアコン(のマイコン)が、それを妥当だと認めない限りは強風を吹き出してはくれないもの
・ステレオの音質の調整も、予め用意されている「クラッシック・モード」や「POPSモード」などのモードから逸脱した設定を許してはくれないもの
そんな機器が増えてきているように思います。
自動車などもそんな感じの部分があるように思いますし、他にも、探せば色々あると思います。
これは、マイコンのプログラムの仕様の影響を受けているということになります。
その予め想定された仕様を逸脱しては利用できないのです。
調整できる機能がないのと、機能はあるけどその調整はマイコンが勝手にやってしまうというのでは、意味合いが全く異なってくるのではないかと思うのです。
そして、このようなことを『ロボットの反乱』と呼んでも良いように思うのです。
(正確に言うと、人が作ったシナリオへの束縛ということになるのかもしれませんが・・・)
話は少し変わりますが・・・・、
私の『心』に関する結論なのですが、ロボットやコンピューターが意思を持ったように見えることがあっても、それは、所詮、人が組み上げたプログラムがそう感じさせるようになるだけで、『自己』というものを決して持つことはないと思っています。
たとえ、『心』をもつロボットを作ったとしても、それは決して『自己』を持ったことにはならないのだろうと思うのです。
(『心』と『自己』の違いが、上手く説明できていないので分かり難いかもしれませんが、でも、何となく雰囲気的に分かって頂けたらなって思います。)
話を戻します。
マイコン制御が浸透しすぎると、人は、人が作ったマイコンを制御するためのプログラムに適応することに迫られます。
しかし、プログラムは、所詮、人の浅知恵で、それを作る人(或いは、作る集団)の想定以上のものは作ることは出来ません。
(想定外のことがあったとしたら、それはただのバグ(不具合・設計ミス)です。)
そんなものよりも、人が適応すべきなのは、人知を超越した大自然や自分自身ではないかと思うのです。
人間社会に生きている以上、社会に適応していくことは必要だと思いますが、せめて、機械くらいは自分の意志で自由に操作したいものです。
機器以外は、テレビゲームは人が作ったシナリオへの束縛という意味では、象徴的なものかもしれません。
ゲーム中に遊ぶ人の想定外のことが起こったとしても、所詮、作る人が想定したアイディアの一つに過ぎないのです。
結論ですが、ロボットの反乱とは、
■ ロボットが意思をもって人に逆らう事ではないのだろうと思います。
■ 一部の人の考えがプログラムに置き換えられてそれに人が操られるようになること、そして、そんな部分的なプログラムが無数に放出されて社会に蔓延してしまうことではないかと思うのです。
テレビゲームなんかしてないで、遊びたかったら外に出ましょう。
人恋しかったら、人に会いましょう。
音楽が聞きたかったら、コンサートに行きましょう。
たぶん、もう少し時間は掛かるかもしれませんが、今の状態が長く続くと、人の心は自分でコントロールできないモヤモヤが鬱積して、自然にそんな流れも生じるのだろうとは思います。
言いたいことを上手く書けた自信がありませんが、何かを感じて頂けることを願っています。
訳の分からない文章を最後まで読んで下さりありがとうございました。
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