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2007年12月29日土曜日

2つの気持ち

例えば、あなたの子供が「学校に行きたくない!」と言ったとします。


あなたはどのように対応しますか?

たぶん、次の2つはどちらにしろ誤っていると思います。

■学校に行きなさい。

■学校に行かなくても良いよ。


このとき、子供には2つの気持ちが存在するのだろうと思います。

■学校に行きたい   【行きたい】

■でも、事情があって学校にいきたくない  【行きたくない】


しかし、子供は「学校に行きたくない」という言葉で表現するので、うっかりしていると、もう一方の気持ちを見過ごしてしまいます。

子供は、「行きたい」という気持ちに気付いていないことがほとんどだろうと思います。

このような場合の2つの気持ちは、「あっちを立てれば、こっちが立たない」というような相反する気持ちであることは何となく理解していただけると思います。

ですから、前に書いたように、「行きなさい」という対応も、「行かなくても良いよ」という対応も間違いということになるのです。


そこで、大人の役割の主なところは

1.2つの気持ちがあることに気付かせてあげること
2.「行けない」事情を理解してあげること
3.事情が大丈夫になれば「行きたい」ということに気付かせてあげること
4.事情によって生じている気持ちが大丈夫になるまで、そばに居てあげること

ということではないかと思っています。



〔余談ですが・・・〕

「行かなくて良いよ」といった対応は、その時は、「自分の気持ちを大切にしてくれている」というように思えてしまうのですが、その攻撃が心にボ ディーブロウのように蓄積して、たぶん、「何だか分からないけどイライラする」といった状態につながることが多いような気がしています。

違う例を挙げると、「父親を避ける子供」が父親を避けることを、母親が手伝うのも同じような状況だと思います。

やっぱり子供は、口では「父親が嫌い」と言っていても、大好きな父親であって欲しいと願っているし、そんな父親と仲良くなりたかったりするのです。



話を戻します。


子供がこのような状況になる都度、前に書いた4つのことを大切にするような対応してあげることで、大人になってからも、仮に「死にたい」と思うこと があったとしても、自分自身がそのような気持ちになる事情を理解し、そして、その事情が解決すれば「自分は生きたいんだ!」ということを、親の他人のサ ポートが無くても、自分の力で自覚できるようになれるのではないかと考えています。



【補足】

「気持ちが大丈夫になる」ということ、そして、その方法については、私のサイトの色々なところで説明していると思いますので、そちらを参考にして下さい。

2007年12月24日月曜日

罪と罰(2) 精神鑑定について

私は精神鑑定について研究している訳ではなく、また、詳しく調べたわけでもないので、ニュースなどの文脈からだけの理解になりますが思うことを少し書いてみたいと思います。


「ちゃんと調べてから書け!」という部分が大部分を占めて、見苦しい文章なのですが、もしよろしければ、読んでみて下さい。


私が『精神鑑定』と聞いて思い浮かべるのは裁判です。

裁判において、その罪に対する罪状や量刑を決める流れの中で行われるという認識しています。

とりあえず、Wikipediaぐらいは見ておこう思って覗いてみました。

その背景について知りたかったのですが、期待していたようなことはかかれていませんでした。
(今後、記載される可能性もあるのでリンクだけ貼っておきます。)


精神鑑定(Wikipedia)

精神鑑定は、『その人に、責任をとる能力があるか』ということを見極めることを目的として行われると認識しています。

また、それが用いられるのは、人の生命に関わる犯罪に限られ、軽犯罪などでは用いられることは無いように感じています。
(実際はどうか分からないのですが・・・)

そして、その結果は、次のような相容れない2極に分離されるように認識しています。
(これまた正しい理解かどうかは分からないのですが・・・)


■『責任能力がある』と判断された場合 : 『有罪』

■『責任能力がない』と判断された場合 : 『無罪』


これは、人としては受け入れ難い概念なのですが、なぜか現代社会では当たり前のこととして受け入れられてしまっています。


そして、その結果


■『責任能力がある』か『責任能力がない』か?

■『有罪』か『無罪』か?


という、何の関係性もない2つの対比を、等価な対比だと主張するような不毛な議論を、いつも経なければならないところがあります。


罪を犯したなら、それは有罪で、無罪などということはありえないと思います。


ですから、一つの案としては、

責任能力があるのなら

1.責任をとる


仮に、責任能力がないという状態が存在するとした場合には、

1.責任をとれる状態になる

2.責任をとる



という流れにする方が、今よりはマシな流れになるのだろうと思います。


この流れだと精神鑑定によって「責任能力がない」とされてしまうと、まず責任がとることができる状態になるまで、期限の決められていない状況の中で 治療?(教育?)によって責任能力を身につけなければならなくなります。
(ただ、ここには精神病院と人権に関わる歴史のようなものも影響して、現在の形に なっているのかもしれませんので、真剣に考えるなら、その辺の背景をきちんと調べなければならないような気がしています。)


そして、能力を身につけた後、ようやく責任をとることができるという流れです。

つまり、責任をとり終わるまでの期間が長期化してしまうことになります。

ですから、責任をとれる人は、今とは、逆に、自らの罪を認めて責任をとることを望むようになり、現在のような、不毛な議論に時間を割かなくても済むようになるのではないかと思うのです


似たような本質を理解しない概念としてに『計画性』というものがあります。

これは、性悪説を前提にした考え方だと思うのですが、検討してみる余地があるように思います。

これについては『罪と罰(4) 人はなぜ犯罪を犯すのか』のところで、恐らく触れることになるだろうと思います。


そして、加害者と被害者或いは被害者家族に、本当の解決が訪れるような罰を含めた責任のとり方について、考えてみたいと思います。


【おすすめの本】

時代がつくる「狂気」 精神医療と社会

精神鑑定などが、どのような歴史をたどって現在の状況に至ったのかが、分かりやすく説明されています。
  • 精神鑑定の目的は、簡単に書くと「その被告人に必要なのは、罰なのか、それとも医療なのか」というの区別をつけること。
  • その際、「医療が必要」となったとき、医療側の対応によっては、直ぐ社会復帰させてしまい、罰も医療も不十分になることがあるという問題があった。
  • それを補うために2003年に『心神喪失者医療観察法』が制定された。
ということでした。



その他、精神病に関する認識や対処などの歴史的な移り変わりも説明されています。


参考 : 医療観察制度
http://www.moj.go.jp/HOGO/hogo11.html

【2009.04.22追記】

精神に関わる法などの現状や問題点をざっくりと理解されたい方は、次の本を読まれると良いと思います。
(大学の教科書のような本なので、読むには気合が必要です。)


2007年12月21日金曜日

メルマガ編集後記【No.0014】

今回のメルマガの結論に対する補足をしておきます。


【例:前編】

小さな男の子が、お母さんに連れられて公園にやってきました。

その子は、友達と滑り台で楽しく遊びはじめました。

ところが、滑り台でつまずいて転げ落ちて しまいました。

その子は泣きながら戻ってきて、「痛いよぉ~、もう、滑り台なんか、絶対にしない!」と言っています。

母親は、その子を見て「怪我が無くて 良かった」とひと安心。

でも、その子は全く泣きやむ気配がありません。

他の友達たちは、そんな事はお構いなしに、楽しそうに、滑り台で遊んでいます。

母親 は、「怪我が無くてよかったまた、友達と仲間に入って、滑り台で遊べるようにしてあげたい」と思っています。


【例:後編】

子供は、安心な気持ちになって、みんなのところに走り出しました。

そして、また、みんなと楽しそうに滑り台で遊びはじめたのです。

よかった!母親はホッとしました。



前編と後編の間で、母親は泣きじゃくるその子とどのように関わったら良いと思いますか?

いろいろなパターンが考えられると思いますが、概ね次のような対応をすれば、子供の気持ちは安心になって、親がどうこう言わなくても、自分から勝手に楽しい雰囲気の方に吸い込まれていくのだろうと思います。


■「痛いね、痛いね、もう滑り台なんかしたくないよね」という感じで、その時の子供の嫌な気持ちに、子供が納得するまで慌てずに寄り添う。また、合わせてスキンシップによって安心感も与える。


そうすると、このとき、子供は、「辛い気持ちは一人で我慢しなくても良い。辛いとき、優しくしてもらえたら大丈夫な気持ちになれる」ということを学ぶことができるのだろうと思います。


ところが、次のような対応をすると、学ぶことは180度変わってしまいます。


■大した怪我じゃないから、大丈夫だよ。みんなと遊んでおいで。

■男の子がそんなことぐらいで泣くものじゃないよ。

■お前は強い子だよね。大丈夫だよね。

■ほら、みんな楽しそうに遊んでるよ。お前も一緒に遊んでおいで。

■今のは、たま失敗しただけだよ。お前は上手にできるから大丈夫だよ。


これらは、言う側にそんなつもりはなくても、「辛さを感じないようにしなさい」ということを言っています。

ですから、いくら気をつけて優しく声をかけたとしても、子供は辛い気持ちを支えてもらえず、自分ひとりで耐えなければならなくなります。

そして、子供は、『辛い気持ちになってしまったら、自分ひとりで耐えないとしょうがない』ということを学びます。


『辛い気持ちを一人で我慢する』ということは、子供にとっては、滑り台で痛い思いをするよりも辛いことなのです。


しかし、このようなとき、子供は、ほとんどの場合、

1.滑り台で転んで痛い
2.痛さを自分ひとりで我慢しなければならないのはとても辛い。

という2つのことによって自分が苦しい気持ちになっていると認識することはできません。

そして、意識している原因と結果を直線的に結び付けて、「滑り台は転ぶから辛い」と考えるようになるのです。


繰り返しますが、本当につらいことは、「自分一人でつらさに耐える」ことなのです。

このような「つらさに耐えて乗り越える」という経験の積み重ねによって、次のような信念を持つような苦しみの人生へと送り出されていくことになります。

■つらい時は、感情を麻痺させ、感じないようにするしかない。(強い心になる、ポジティブ思考、みんな苦しいのだから・・・、普通のことだから・・・)

■辛さの原因は排除するしかない。(ストーカー的行動、他人を変えようとする(責める)、人間関係を切る、いじめる、訴える、クレームを言わずにはいられない)

■辛さの原因となった事象は避けるしかない。(恐怖症的反応)

■つらくならないよう良い出来事ばかりが起こるように努力するしかない。(のんびり休むことができない、やたら新しい事に取り組む、三日坊主、良い出来事のための努力を惜しまない)

■つらさは結局自分ひとりで解決するしかない。(引きこもり、うつ、いじめられる)



そうやって、頑張ってらいられるうちはいいのですが、嫌な気持ちを解決することなく、他のことでごまかし続けていると、原因の分からないモヤモヤや苦しみのような感覚をいつも心に感じるようになってしまいます。


そこで、次に、

■苦しみの原因として相応しいものを、無理矢理に見つけ出し、その解決に取り組むようになる(コンプレックスや問題行動などの)

■じっとしていると嫌な感覚を感じてしまうので、ひたすら何かに打ち込むようになる。(仕事、勉強、気分転換や趣味などに没頭する)


それでも、感情や感覚を無視して頑張っていると、心身ともに疲れてしまい

■心身のバランスが崩れ、身体症状が現れる

■無気力になる(うつ状態になる)

ざっくりいうと、そんな経緯をたどるような気がしています。


このとき、上記のどのような症状や状態にあるのかということは、意識の方向性が違うということだけのことですから、大して重要な事ではありません。

ただ、「辛い気持ちは一人で我慢しなくても良い。

辛いとき、優しくしてもらえたら大丈夫な気持ちになれる」ということを知らない、或いは、信じられないだけなのです。


ですから、それを信じ、実践していくだけで、心は晴れてきます。


すみません、うまく補足説明ができたかどうかわかりませんが、何か参考になる部分があることを願っています。

2007年12月19日水曜日

それでも子供は母親を愛していた

小さな兄弟が、母親に1ヶ月以上置き去りにされていたという事件のニュースを読んで、何とも言えない気持になりました。
幼い長男(5)と三男(当時1)を自宅に1か月以上置き去りにし、三男を死亡させて死体を遺棄したとして、母親に懲役15年の判決が下された。生き延びた 長男は生の米や生ゴミ、冷蔵庫にあったマヨネーズで飢えを凌いでいた。2人とも「死んでいる」と思って自宅に帰った母親に、長男はそれでも、「ママ遅い よ」と駆け寄った。
J-CASTニュース : 生ゴミ、生米くらって餓死免れた! 鬼母に遺棄された5歳の「地獄絵」
2人とも「死んでいる」と思って自宅に帰った母親に、長男はそれでも、「ママ遅いよ」と駆け寄った。

「ママ遅いよ」

悲惨な状況の中でも、信じて母親を待っていたというその子の気持ちを感じ、何とも言えない気持ちになりました。

その子を抱きしめてあげたいと思いました。

詳しいことは何も調べていませんので確かではないのですが少し想像できる事を書いておこうと思います。

たぶん、社会的には、「子供を置き去りにした母親が問題のある人物だったために、そのような行動をした」といったの認識をすると思います。

でも、たぶん、本質はそうではないと思っています。

この母親がどのような家庭環境で、どのような思いをしながら子供時代を過ごしたかということをきちんと調べると、たぶん、かなりの確率で、「つらい とき、悲しい時、苦しい時に、誰にも抱きしめてもらえずに、ひとりぼっちで我慢していた」という状態だったということが分かるのではないかと思います。

「そんな子に育てた覚えはない!」

これは、私が子供の時によく耳にした言葉です。

当時は、「『そんな子』と呼ばれるような人になってしまったんだ」」と本気で思っていたような気がします。

しかし、親以外、その子を育てた人はいないのです。

子供の友達や学校の先生ののせいにすると、親の気持ちが楽になることはあるかもしれません。

でも、冷静に考えてみると、『自分がその子を育てた』という事実からは、逃れることはできません。

本当の問題は、その子が『そんな子に育った』ということではなく、親に『自分がそんな子供に育てたのだという自覚が無い』ということだと思うのです。

この事件の場合、その母親だけを責めるのは、社会という親が、子供に「お前をそんな人間に育てた覚えは無い」と言っているのと同じ構図になっているような気がします。

犯罪に対してただ罰を与えるだけの対応をしていると、人の気持ちにますます目が向かない社会になり、犯罪は減るどころか、今後も増え続けていくのではないかと思うのです。

人を傷つけたり犯罪を犯すことは、許されるべきことではありません。

でも、その人の人生の全てをきちんと理解したとき、きっとその人に対しても涙を流してあげられるだけの事情があるだろうことも、何となくでも良いので思ってあげて欲しいと思うのです。

そして、今の社会に、そんな互いに理解し合おうとするような暖かい雰囲気が広がっていくことが、きっと、このような悲しい事件を防ぐことにつながるのではないかと思うのです。


最後に・・・、


この事件の記事を読んで、子供は親を愛しているということは、確信して良いことだろうと思いました。

だから、子供にどう対処して良いか分からなくても、親はただ抱きしめてあげようとすれば良いのだろうと思います。

子供が大人になって、反抗的な態度をとったり、小難しいことを言ったりしていても、本当は、ただ、親に抱きしめてもらいたいだけなのだろうと思います。

それ以外は、何も要らないと言っても過言では無いように感じています。

あなたは、子供を抱きしめてあげていますか?

あなたは、親に抱きしめてもらってますか?

もし、抱きしめてもらうことが難しいとしたら、ちゃんと抱きしめてくれる誰かを探しませんか!


2007年12月16日日曜日

カウンセラー・カウンセリングに対する誤解

ここ数年、事件や事故が起こったとき、行政や団体はその対策の一つとして、「カウンセラーを派遣した」「カウンセラーを配備した」などと発表することが多くなってきたように感じます。

そこでちょっと感じる心配について書いてみたいと思います。

カウンセラーを配備したということによって、その目的が実際に機能しているのか

(つまり、「そうやって配備したカウンセラーを実際に利用している人 はいるのか?救われている人はどれだけいるのか?」といったこと)

というと、イマイチ不明なところがあります。

(私が、検証報道に気付いていないだけなの かもしれませんが・・・。)


しかし、行政や団体側には、そのように対応する大きなメリットがあります。

カウンセラーを配備したということによって、「心理的なサポートも配慮した」ということで、将来の責めに対する免罪符が与えられるような雰囲気が今の社会にあるからです。

カウンセラーやカウンセリングという言葉を使うだけで、心理面のサポートも含めてトータル的な対策をしていることをアピールできるからです。

そのような流れで、今、「事件・事故 = カウンセラーの配備」という方程式が、深い考えのないところで浸透しつつあります。
(浸透させる役割は、深い考慮のないところで報道してしまうマスコミが担っています。)


もともと(それは数千年レベルでさかのぼるのかもしれませんが・・・)は、カウンセラーやカウンセリングというものは、必要なかったのだろうと思っています。

身近な誰かとのコミュニケーションの中で、人の心は十分に癒されることが出来たのだろうと想像しています。

それが、「価値観の多様化や社会の変化に伴って、人の心が癒される機会が減ってきてしまっている」、或いは、「機会があっても、そこでどのような関わりが行われれば、人の心が癒されるのかが分からなくなってしまっている」だけなのだろうと思います。

そのちょっと分からなくなっている部分を補完するのが、カウンセラーやカウンセリングなのだろうと思うのです。

そして、やっぱり、本当は人は身近な人に救われたいだろうと思いますし、身近な人によって救われるべきなのだと思います。


このようなことを考えずに、「人の心を救うことができるのはカウンセラー」というような印象付けをすることは、「人の心を救おうとしている」という与えられる印象とは裏腹に

・人が人の心を救えないということ、

・心を大切にする以外のところでの活動を重視すること

に拍車を掛けるだろうと、とても心配しています。



「事件・事故 = カウンセラーの配備」という方程式が広まってしまうと、今、かろうじて残っている癒しのコミュニケーションも、その人間関係から剥ぎ取っていてしまうことにつながりそうに感じるのです。

今の流れでカウンセリングやカウンセラーが社会に受け入れられていくことは、社会や人の心の荒廃につながりそうな気がするのです。

本当は、将来的には、今カウンセリングやカウンセラーが補完している機能は、再び、身近な人間関係の中に戻っていって、カウンセラーなんていらなくなることが望ましいのだろうと思っています。


今の私の役割は、それまでのものだろうと思っています。


2007年12月12日水曜日

罪と罰(1) 犯罪の予防について

最近、現代社会の罪と罰ということに関連して、ちょっと思うことがあるので数回に分けて、少し考えてみたいと思います。

【予定】

1回目 犯罪の予防について

2回目 精神鑑定について

3回目 加害者と被害者や被害者の家族にとっての本当の解決とは

4回目 なぜ、人は罪を犯すのか

今回は『犯罪の予防について』ということで書いてみたいと思います。


■□■□犯罪の予防について■□■□

専門的に研究したわけではないのですが、現代社会の基本的な考え方は、感覚的に次のように理解しています。

■犯罪を犯した人に罰を与え、再犯することを防ぐ。

■また、罰せられるということを周知徹底することで、犯罪抑止につなげる


簡単に書くと『罰を恐れさせて人々を抑制する』ということになるのだろうと思います。

だから、ストーカー被害などのような、「将来の犯罪につながるかもしれないけどまだ起こっていない」ことに対処するのは、難しいだろうと思います。

でも、積極的に「犯罪につながりそうだ」という部分を取り締まれば、究極的には、マジョリティがマイノリティを抹殺するところに至ってしまうかもしれないので怖い感じがします。

ですから、まず、現状の考え方による仕組みが正しく働くように、調整してみることが大切なような気がします。

それでも、うまく機能しないようなら、別の発想が必要になってくるのでしょう。


今あるシステムは、

1.警察
2.検察・弁護士
3.裁判所
4.マスコミ(或いは、広報や公示など)

によって実現されるものだと考えています。


この4つ目がどうも機能していない感じがしています。

犯罪者が逮捕されたというニュースはしばしば見かけますが、どのような犯罪でどのような刑罰になったのかという報道は、特殊な場合を除いては、ほとんどなされていないような気がします。

それでは、罰に対するリアリティをあまり感じられないだろうと思うのです。

「今日の刑罰確定情報」みたいな感じで、「犯罪とその結末としての罰」の情報を、日々のテレビニュースや新聞で報道し続けることが必要なのではないかと思います。

そうすれば、とりあえず、現在の考えによる犯罪抑止は、今よりは機能するようになるかもしれないと思うのです。

しかし、根本の解決にはなりません。

「なぜ、犯罪を犯してしまうのか」

そのことについては、別途考えてみたいと思います。