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2007年12月16日日曜日

カウンセラー・カウンセリングに対する誤解

ここ数年、事件や事故が起こったとき、行政や団体はその対策の一つとして、「カウンセラーを派遣した」「カウンセラーを配備した」などと発表することが多くなってきたように感じます。

そこでちょっと感じる心配について書いてみたいと思います。

カウンセラーを配備したということによって、その目的が実際に機能しているのか

(つまり、「そうやって配備したカウンセラーを実際に利用している人 はいるのか?救われている人はどれだけいるのか?」といったこと)

というと、イマイチ不明なところがあります。

(私が、検証報道に気付いていないだけなの かもしれませんが・・・。)


しかし、行政や団体側には、そのように対応する大きなメリットがあります。

カウンセラーを配備したということによって、「心理的なサポートも配慮した」ということで、将来の責めに対する免罪符が与えられるような雰囲気が今の社会にあるからです。

カウンセラーやカウンセリングという言葉を使うだけで、心理面のサポートも含めてトータル的な対策をしていることをアピールできるからです。

そのような流れで、今、「事件・事故 = カウンセラーの配備」という方程式が、深い考えのないところで浸透しつつあります。
(浸透させる役割は、深い考慮のないところで報道してしまうマスコミが担っています。)


もともと(それは数千年レベルでさかのぼるのかもしれませんが・・・)は、カウンセラーやカウンセリングというものは、必要なかったのだろうと思っています。

身近な誰かとのコミュニケーションの中で、人の心は十分に癒されることが出来たのだろうと想像しています。

それが、「価値観の多様化や社会の変化に伴って、人の心が癒される機会が減ってきてしまっている」、或いは、「機会があっても、そこでどのような関わりが行われれば、人の心が癒されるのかが分からなくなってしまっている」だけなのだろうと思います。

そのちょっと分からなくなっている部分を補完するのが、カウンセラーやカウンセリングなのだろうと思うのです。

そして、やっぱり、本当は人は身近な人に救われたいだろうと思いますし、身近な人によって救われるべきなのだと思います。


このようなことを考えずに、「人の心を救うことができるのはカウンセラー」というような印象付けをすることは、「人の心を救おうとしている」という与えられる印象とは裏腹に

・人が人の心を救えないということ、

・心を大切にする以外のところでの活動を重視すること

に拍車を掛けるだろうと、とても心配しています。



「事件・事故 = カウンセラーの配備」という方程式が広まってしまうと、今、かろうじて残っている癒しのコミュニケーションも、その人間関係から剥ぎ取っていてしまうことにつながりそうに感じるのです。

今の流れでカウンセリングやカウンセラーが社会に受け入れられていくことは、社会や人の心の荒廃につながりそうな気がするのです。

本当は、将来的には、今カウンセリングやカウンセラーが補完している機能は、再び、身近な人間関係の中に戻っていって、カウンセラーなんていらなくなることが望ましいのだろうと思っています。


今の私の役割は、それまでのものだろうと思っています。


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