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2004年11月27日土曜日

普通の家庭

たぶん、ほとんどの人は、自分の家庭は「普通の家庭」だと思っているのではないかと思います。

ここでいう「普通の家庭」は、「母親と父親が揃っていて、金銭的に不自由が無く・・・」などということを指しているのではありません。

私は、「普通の家庭」かどうかは、「その家庭でどのようなコミュニケーションが行われていたか」ということで区別出来るのではないかと考えています。(詳しいことは、また別の機会に書かせて頂こうと思います。)

さて、私の話ですが、
私は、長い間、自分の育った家庭は、「普通の家庭」だと思っていました。というよりは、「普通かどうか?」なんて、疑問すら持つことが無かったように思います。自分にとっては、「それが当たり前」という感覚だったと思います。もう少し説明すると、私が学生の頃は、「家庭崩壊」という言葉をニュースやワイドショーなどでしばしば耳にしましたが、「自分の家庭には無縁なことだ」と思っていました。

なのに、自分は、怒りの感情が抑えられなかったり、自分らしく自然に振る舞いたいのにそう出来難かったり・・・。「自分は『変な人間』なのかもしれ ない」、つまり、「自分だけが悪い」、「自分の心は出来損ないだ」などというような気持ちで、自分を責めてしまっていたような気がします。今から考える と、そんな説明になるのですが、その頃は、「理由も分からずに、ただ辛い」という感覚だったような気がします。

でも今は、「辛い」という気持ちには、それなりの理由があるのであって、心が強いとか心が弱いとかいう議論」は全くの的外れのように思っています。

「自分の家庭が普通ではなかったのかもしれない」ということに気づくことは、その家庭のことを悲観したり、父親や母親を責めたりするのではな く、「そのような状況の中でも自分なりに頑張ってやってきた」ということに気づき、そんな自分を認め、そして、自分自身をいたわってあげることのきっかけ になるような気がしています。

もし、「辛い」と感じて、自分自身を責めていることに気が付いたら、自分自身を責めることは少しの間お休みにして、「過去に自分がどのような環境に 置かれていたのか」、または、「今どのような環境に置かれているのか」を、客観的に理解しようとすることは、何かの役に立つかもしれないと思います。

次回からは、私にとって「普通ではない家庭」とはどういう家庭だったのか、そして、その中で、どのように感じ、どのように行動してきたかを、少しずつ思い出しながら書いていきたいと思っています。
【つづく】

あなたにもこんなに可愛い頃があったのよ

親がアルバムを見ながら、
「あなたにもこんなに可愛い頃があったのよ」
と、懐かしそうにする場面に遭遇したことのある人は多いのではないでしょうか?

私は、今まさに、親が昔を振り返ってそう言った時を、自分の子育っての場面で体験しています。

実際にその場面で過ごしてみると、「『可愛い』という優しい気持ち」だけであり続けることは、とてもが難しいことだと実感しています。

そんな時、将来の自分がこの頃を思い出して、「『あなたにもこんなに可愛い頃があったのよ』なんて言うのかなぁ~?」って思うと、
「今のこの子達の可愛さを、自分の為に、しっかり感じておこう」と、少し優しい気持ちを取り戻せるような気がしています。(^_^;)

2004年11月26日金曜日

心が傷つく

「心が傷つく」という言葉を聞くと、その言葉の意味を当然理解できるような気がしてしまいます。でも、私は、それは錯覚だと思っています。

もし、それをその言葉のままに受け入れてしまうと、
『自分は傷つきやすい心の持ち主なんだ』
というような感じがしてしまって、「心が傷つく」ということからは、なかなか抜け出せないような感じがしてしまうかもしれないと思います。少なくとも昔の 私は、『自分の心は出来損なってしまったから、もう取り返しがつかない・・・』という絶望感に近い気持ちになってしまっていたような気がします。

「心が傷つく」という言葉は、実は、とてもあいまいなままに使われていることが多いような気がします。そして、自分の悩みを脇に置いて、この言葉をもう少し具体的に考えるだけでも、希望が少し近づいてくるかもしれないと思っています。

「心が傷つく」ということには、2つの場合があるように思っています。そして、その2つが区別できていないと、とても混乱することがあるような気がします。ですから、まず、始めに、その区別をつけることは、とても大切なことだと思います。

それは、「相手に悪意があるのか、ないのか」による区別です。もし、何らかの方法で、相手に悪意があることが確認できたとしたら、心が傷つくのは当然のことだと思います。そして、その相手は「人の心を傷つける悪い人」という結論にしてしまっても良いのかもしれないと思います。

困ってしまうのは、相手に悪意が無いのに、ある言葉を言われたり、態度をとられると、「心が傷ついた」と感じてしまう場合だと思います。ここで、「心が傷つく」という言葉に対して、私なりの定義を書いてみたいと思います。

「心が傷つく」の定義

相手の言葉や態度などをきっかけにして、
それを受けとめた側の人が、
その言葉や、それから自分が連想したことによって、
自分自身を責めることを止められなくなってしまうこと

つまり、「傷つきやすい」というのは、実は、「自分自身を責めてしまいがちな傾向がある」と表現んできるような気がします。そして、もし、自分自身を必要以上に責めることを止めることが出来たら、「傷つきやすい」という状態から、きっと抜け出すことが出来ると思います。

今回の内容を受けて、次回は『「自分を責めてしまう」ということ』というタイトルで、その次は、『強い心・弱い心』というタイトルで、続きを書いていきたいと思っています。
【つづく】

自分の感情が変化してしまうトリガーへの気づき

「自分の感情」が変化(特に、怒りや悲しみ等の「負の感情」への変化)してしまうきっかけとなる「出来事」や「相手の言葉」や「他人の行動や反応」などについて

そういうことを言われたり、されたりすると、
自分が腹が立ったり悲しくなったりするのは
当然のこと

みたいな感覚があったような気がします。

「そんな風に感情が変化してしまうのは、自分独特の反応(習慣)だ」ということを、認識しようとすることは、自分を解放していくためには、とても重要な事だったような気がします。

その自覚が出来るようになると、
それまで、
■ 『出来事 = 感情』
のような感じに一体化していたものが、
■ 『出来事』 と 『感情』
という感じに少し分離することに役立つような気がします。

昔の職場で一緒に仕事をしていた人の中に、私が失敗をしそうになる直前に、私の間違いを指摘する人が居ました。
始めは、嫌味を言われているような気がして、「なんで、こんなギリギリになる前に教えてきれないの?!」と少し怒りにも似た嫌な感じがしていました。そんな私の気持ちをよそに、彼は、その後も、直前になって指摘することを繰り返しました。

その繰り返しの中で、「彼は、私が失敗する前に(失敗しないように)、そのことを指摘してくれている」ということに、ようやく気づくことができました。表現を変えると、『言葉』や『タイミング』や『表現方法』などは問題ではなく、失敗しないように間違いを教えてくれているという気持ちが大事だったということに気づいたのだと思います。

人それぞれ、言葉や行動には癖があると思います。そして、私の場合は、「直前に指摘されること、嫌な感じがしてしまう」という癖があったように、そ れを受けとめる方にも「受けとめ方の癖」があるのだと思います。そのお互いの癖が、「本当の気持ち」を通じ難くさせてしまっているような気がします。

これまで書いたように、『自分だけの感情の習慣』に気づくことは、「相手の本当の気持ち」から離れたところにある、受け取る側が勝手に作り出してしまう『幻の気持ち』から自由になるきっかけになるような気がしています。

「あの人には『地雷』がある」なんて表現があると思いますが、ここまで書いてきたことは、多分、この『地雷』のことだろうと思います。また、『自分探し』という言葉も、しばしば耳にすることがあります。その頃の私には分かりませんでしたが、今から振り返ると、『自分探し』とは、自分の中の『地雷』を見つけ出し、爆発しないように処理する作業』だったのかもしれないと思います。

2004年11月25日木曜日

どんな状態だったかというと・・・(その1)

今回は、初期の状態を振り返ってみようかと思います。

症状として、私が始めに気になりだしたのが、心臓の鼓動です。
たぶん、「頻脈」と表現される状態だったと思います。そして、「不整脈」も出るようになって、「これがひどくなると『心不全』になって、死んでしまうのかもしれない」と、とても不安でした。

その頃の私は、「心」というものについての理解は全くありませんでした。また、症状が出ていたので、「病気かも知れない・・・」と思って、某大学病 院に助けを求めました。(たぶん、内科だったと思います。)そして、いろいろと調べてもらった結果は、「問題なし」ということでした。診察室を出るとき に、医師は、「気のせい、気のせい!」と笑いながら、私の背中をポンとたたいてくれたような記憶がうっすらと残っています。

体の異常を、症状として確かに感じているのに、「大丈夫!」と笑顔で言われたとき、まるで「治らない」と言われているような感じがして、絶望にも近い気持ちになったような気がします。

しばらくして、私は、「体に異常が無いのだったら、気合で治すしかない」と決意したのでした。
【つづく】

2004年11月24日水曜日

自分の子供という存在

【続き】
「自分の子供」という言葉には、「子供は親の所有物」的なニュアンスも含まれているように思います。そんな感覚になるのは、ある意味、普通のことのように思います。でも、最近、違う意味合いがあることに気づきました。

それを文章で上手く表現できるか分かりませんが頑張ってみます。

子供とは、親と呼ばれる人と
ある期間一緒に過ごしてくれる人

母親は「自分のお腹を痛めた」という確かな実感を持っていると思いまし、父親も、母親からその実感を分けてもらって、それぞれに、『自分の子供』と感じていると思います。そして、それは、ごく普通の感覚だと思います。

でも、前回に書いた「奇跡について」みたいなイメージから考えると、子供は、父親・母親というレベルよりも、もっと大きなところから、この世に生ま れてきているような気がします。(もしかしたら、「自分の子供」なんていうことは、恐れ多くて言えないことなのかもしれません)

そして、たまたま「その親の子」として生まれてきた「子供」と呼ばれる1人の人が、親の人生のある期間、他の人間関係では得られないほどの親密さで、関わってくれているような気がします。

ただ、その人は、あまりにも未熟な為に、なかなか1人の人として見ることは難しいと思います。

そんなときに、「これからの自分の人生のしばらくの期間、とても親密に関わってくれる人が、そこに居てくれている」と思うと、そんなに親が思う通りにコントロール(支配)しようとしなくても良いのかもしれないと思えて、少し肩の荷が下りたような気がしました。
「親がして欲しくないこと」を何回も繰り返すとき、「言うことを聞かない!」とイライラするよりは、「言葉の通じない外人に、親切に教えてあげる」ような心境になることも、少し多くなったような気がしています。

といっても、いつもいつも、そんな「きれい事」のような心境で、子供と接することは、出来ていませんが(^_^;)、そんなことを思い浮かべると、気持ちが楽になることも多いです。

2004年11月22日月曜日

いのちのイメージ

以前に、ちょっと考えたことを、最近、ふと思い出しました。

経済社会の中で生きていると、宗教的な印象を感じてしまうかもしれませんが、特定のに宗教にはこだわりのない人間の考えたことです。

【次回】に「自分の子供という存在」という内容で、書きたいことがあるのですが、それにこんな感覚がつながっているのかもしれないと思うので、しばらく、私の「たわごと」に辛抱して付き合ってください。m(__)m

《奇跡について》

なぜ、宇宙ができたのか?
なぜ、地球ができたのか?
なぜ、生命が誕生したのか?
そして、なぜ、私たちが今ここに存在しているのか?

そのことが、明らかになるときは、いずれやって来るかもしれません。
しかし、私たちには、そのことは大して重要な事ではないような気がします。

一番大切なのは、
この地球には、「いのち」、そして「心」を生み出す奇跡のシステムが、
今、まさに存在しているという事なのかもしれません。

その奇跡のシステムが自分を生み出した。
そして、他の人も同じ奇跡に恵まれたことを喜び、
自分の人生を大切に主演して、
また、みんなの人生を大切に助演する
それが、私たちがしなければならないことなのかもしれません。

限られた奇跡が終わるときまで・・・、

心とは、
水に満たされた世界に現れては消えることを繰り返す
一粒の「氷の結晶」のようなものなのかもしれない。
さっき消えた氷の結晶と、今できた氷の結晶、
違うといえば違うが、おなじといえばおなじ。

はじめに

いろいろと「こころ」のことを勉強したけれど、
自分の子育てということになると・・・

現在、長男(2才)次男(5ヶ月)の2児の子育てに直面しています。
実際の子育ての中で、気づいたり/考えたり/苦労したりしたこと(愚痴?)や、「こころ」に関わる仕事をしている中で、「子育てでは、こんなことが大事かもしれない」と思ったことなど、書き留めていこうと思っています。

(愚痴ばかりにならないように気をつけます(^_^;))

2004年11月19日金曜日

絶対に正しいこと

「自分自身が、感じていること」
これは、誰が何と言おうと、自分自身にとっては、正しいことです。
このことに対して、「自分は、どうして、そう感じるのだろう・・・」と考え始めると、迷いの淵へとはまり込んでいってしまうような気がします。

自分の感覚や感情に対して、「どうして?」という問いかけをすることは、その原因を考えているという錯覚を与えます。それは、「どうして?」という 言葉には、2つの意味が含まれていることによるのかもしれません。次の文章を見ると、そのニュアンスの違いが確認できるかもしれないと思います。

小さな子供が、泣いていました。それを見た母親は言いました。
 ①「どうして、泣くの?」
 ②「どうして、泣くの!!」

それぞれのときの、女の子の心境は、容易に想像できるのではないでしょうか?
多くの人が、実際に自分に対してやってしまっていることは、②番目のような気がします。
そして、それは「そう感じる自分はダメだ!」と自分自身を責めてしまっているような気がします。

「悩むこと」や「考えること」が、「自分を責める理由探し」になってしまわないように、次のような文章を書いておきます。文中の「○○○○」を埋めようとすることから始めることが大切だと私は思っています。

《例えば、「辛い」と感じているとき》
「自分が暮らしている世界を「○○○○」のように思っていたら、私が「辛い」と感じるのも無理はない」  と、自分自身をねぎらう

これは「諦める」ということではありません。逆に、『「諦めなくても大丈夫なんだ」と心から感じるための準備』と言っても良いかもしれないと思っています。

参考になるかどうか分かりませんが・・・

私の「生きにくい世界」というイメージが、私の中にどのように、形作られていったのか?
今の自分が、過去の自分を振り返ってみて、ちょっと気になる経験を、少しずつ思い出しながら書いてみようと思います。

人が経験する出来事は、人によって千差万別だと思います。また、同じ出来事でも、そのことに対する反応の仕方も、十人十色なので、これから私が書こうとしていることが、参考になることは少ないかもしれません。

出来るだけ、飾らず正直に書いていきたいと思っています。
ですが、それをどれだけ実現できるかは分かりません。
やはり、ありのままの自分を見つめ、そして、ここに記していくということは、私には、とても勇気が要ると思えるからです。

ただ、「飾らず正直に自分を見つめようとしている」という雰囲気が伝わって、その雰囲気に何かを感じて頂けることを願っています。

この作業は、自分の過去を、責めたり、悔いたり、過去の誰かや出来事を責めたりする為ではなく、過去の囚われから開放される為にするということは、覚えておいて欲しいと思います。

【つづく】

開放へのきっかけ

あの頃は、とても苦しくて
「自分が何の為に生きているのか分からない」
そんな心境でした。

でも、「自分がこの世から居なくなる」ということは、私にとってはかなりの恐怖でした。
とても、そんな勇気は、私にはありませんでした。
だから、そんな私には、どうしても、「自分が生きているための理由」が必要だったのです。

「自分の為には生きることが出来ない・・・」    ならば、「人のために生きよう・・・」

それは、今から思えば、とても寂しい決断だったと思います。
でも、その時の私には、「生きていても良いんだ」と思えた瞬間でした。そして、私はボランティアの電話相談員になる為の勉強を始めたのでした。


もし、「自分の為に生きられない」と感じているのなら、「人のため」「仕事で成功する為」「子供のため」「環境保護のため」など、自分以外の何かの為に生きようと考えることは何かの助けになるかもしれないと思います。
そして、「いつか、きっと、自分の為に生きられるようになる」と、心の片隅に少しだけでも信じようとすることは、そこへ向かう「緩やかな変化」を起こすことを手伝ってくれるような気がしています。
【つづく】

どん底へのきっかけ

私が20代後半に差し掛かった頃、「どん底」の状態になってしまいました。「「どん底」になってしまった」というよりは、「「どん底の状態だった」という事に気づいてしまった」と言う方が、そのときの心境に合っているような気がします。

きっかけは、たぶん、転勤だったと思います。
関西から関東への転勤。
今から思えば、それまでも、結構「生き辛い」と感じることもあったような気がします。でも、学生の頃から仲良くしてくれていた友達と過ごしたりすることで、そのことをあまり深く考えずに暮らすことが出来ていました。

それが、関東に来たことで、そんな友達とも会えなくなってしまって、自分の中にあった「生き辛さ」に直面せざるを得ない状態になってしまったのだと思います。

別の表現をすると、それまでの自分は、共に過ごす相手によって、自分らしくなれたり、自分らしくなくなったりするような、不安定な状態だったということもできるような気がします。
【つづく】

2004年11月18日木曜日

落ちるところまで落ちたら・・・

『落ちるところまで落ちたら、それより落ちることはない(あとは上がるしかない)』というような言葉を、たまに耳にすることはあるかもしれません。
けれども、自分自身がその「渦中の人」になっているときは、『「そこから抜け出すことが出来る」なんて、とてもじゃないけど思えない』って感じではないかと、私自身の経験から思います。

でも、今の私は、「永遠に続くと思えて、気が遠くなるような苦しい世界」から抜け出すことが出来ました。『落ちるところまで落ちたら、それより落ちることはない』の意味が、体験して、やっと分かったような気がします。
だから、その苦しみから抜け出すことが出来ないと感じてしまっていても、「きっと、大丈夫になれる」ということは、心のどこかで信じていて欲しいと思います。

その参考になることを願って、このカテゴリーでは、私の「どん底」だった時の状態や心境を、少しずつ思い出しながら書いていきたいと思っています。

2004年11月16日火曜日

このブログに取り組む気持ち

【メッセージ】
もし、あなたが、
「この心の苦しみからは、決して抜け出すことなんか出来ない・・・」
と感じているのなら・・・・・

実は私も、長い間、そう思えていた時期がありました。
でも、今は違います。
だから、あなたも、きっと、大丈夫!

このブログに、これから私が書き綴っていく「私の苦しみの歴史」、そして、「苦しみから抜け出すまでの歴史」が、あなたの希望につながることを願っています。
また、「苦しみから抜け出したから分かったこと」もあるので、そんなことも書いていきたいと思っています。

【ちなみに(^_^;)】
『「ブログ」というものは、どのように使うものなの?』
って感じで、イマイチ把握できていないのですが、活用を模索していこうと思っています。

今の予定では、このブログに思うままに書き留めて、頭が整理できたら、私のホームページにも、更新していこうかなって思っています