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2008年12月21日日曜日

本が出版されます

■タイトル : あなたにもある心を回復する機能

■発行日 : 2009年01月15日

悩みや心の苦しみの原因と解決方法をご理解頂けると思います。

書籍のご紹介ページはこちら

http://www.pureheart-counseling.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%AE%E3%81%94...

書店で注文が可能になったら、このサイトでご報告します。


販売開始まで、今しばらくお待ち下さい。

2008年9月26日金曜日

化学物質過敏症という言葉から考えたこと

『化学物質過敏症』という言葉からは、それが病気であるような印象が伝わってきます。

しかし、本当に、そうなのでしょうか?

話は、少し、それますが・・・・。

前にも書いたと思いますが、インフルエンザにかかると『高熱が出るという症状』に苦しめられるのではなく、インフルエンザ・ウイルスを死滅させる為に、人の体が主体的に熱を出しています。


つまり、インフルエンザにかかって最も避けるべきことは、ウイルスに人の細胞が攻撃されて破壊されることで、それから身を守る為に、人の体はウイルスを死滅させるために自分の体を破壊しないギリギリのラインの熱を発生させているということのようなのです。


また、同じ、38度の熱があっても、人体の反応は違います。


・熱の出始めは寒気を感じて厚着をしたりふとんをかぶったりという行動を起こします。

・熱のピークを過ぎると、暑さを感じて涼しい状態になろうとします。


これも、熱の出始めには、高熱を実現できるように体温を逃さないような行動を起こさせる為に寒気を感じ、逆に、ウイルスが死滅て高熱が不要になれ ば、体温を元に戻すための行動を起こさせる為に暑さを感じるようにするという、人体の主体的な働きによって生じる感覚と認識できるのだろうと思います。


で、話を戻すと、『化学物質過敏症』は何を実現しようとしているのかというと

■化学物質から体を守る必要があるときに、それを避けるような行動を起こさせる為に症状を起こしている

と考えることができます。


ですから、何が問題かというと、化学物質が溢れている社会の方が問題なのです。

今の社会ではそれが病気のように言われていますが、100年後のことを考えると、化学物質過敏症でない人の子孫は遺伝子的な問題を抱えてしまって、化学物質過敏症の人の子孫の方が健康に生存している可能性が高いのではないかと思うのです。

本当に問題なのは社会の方なのに、社会によって病気として扱われてしまう『社会病』の典型的な例だと思います。

で、何が言いたいのかというと・・・・。

現在、『心の病気』とされていることの多くは、先の例と同じように、何かを実現する為の主体的な人体の反応という面があります。

でも、社会から病気として扱われてしまうことによって、その主体的な意味を考えられなくさせられてしまうから、そこから抜け出すことを困難にしてしまっているところがあると思います。

症状や心の苦しさは、きっと、何かから自分を守ってくれています。

それが何なのかに、自分自身が気付いて、自分の意思で守ろうとすることが大切なのだと思います。

2008年9月23日火曜日

ニュースに対する違和感

ニュースや報道番組を見ていて、

「なぜ、報道番組やニュースは、あたり障りのないことばかりを、大そうがって話すのだろう?」

「なぜ、政治家のインタビューで、意味不明な発言に、突っ込まないのだろう?」

いつも不思議に思っていました。


日本の様々な報道での、報道内容への理解の深まりのなさは、私たちが日頃行う『井戸端会議』の域をでないものだと思います。

「なぜ、そのような本質から遠いことを、ジャーナリズムだといって真顔で話すのだろう?」

ずっと、違和感を感じていました。


マスコミの、本当のことを語らない(語れない?)雰囲気が、それを見る人たちに伝染してしまい、また、本質でないことを、本質であるかのように錯覚させられてしまうことが、現代の日本の心の苦しさの原因の一つとなっているようにも感じていました。


そんなとき、「ジャーナリズム崩壊」という本を読んで、私の違和感の理由が理解できたような気がしました。





マスコミの風潮に巻き込まれて、自分の正しい考えと感覚を手放してしまうことにならないように、一読することをお奨めします。

2008年7月30日水曜日

心配掛けたくない ・・・ 困らせたい

ニュースでもよく耳にする「心配掛けたくない」と「困らせたかった」という言葉があります。

これらは、子供の親に対する気持ちということで紹介される言葉です。

この2つは、相反する言葉だと感じてしまうことが多いと思います。

しかし、実は、共通点があるのです。

そんなことを、説明します。


細かい説明は別のところでさせていただくことにして、結論を書くと、『苦しい気持ちに寄り添ってもらいたい・・・』という気持ちが共通しているのです。

普通であれば、そんな気持ちを最も身近な人に話し、その気持ちをしみじみと聴き入れてもらうことで、心は次第に癒され回復していきます。

しかし、そんな気持ちを話したときの相手の反応によっては、今回のテーマの言葉につながります。

■「心配掛けたくない」

・気持ちを話すと、つらそうな表情をする(困った顔をする)

・気持ちを話すと、相手が解決しようと勝手に動いてしまう

・気持ちを話すと、別の課題を与えられてしまう

・もともと大変そう(もともとつらそう)だから、気持ちを話せない。

etc...


■「困らせたかった」

・気持ちを話しても、動じない(相手が気持ちを表現しない)

・気持ちを話しても、関心を示さない

・気持ちを話すと、自分で解決することを強要される

・気持ちを話すと、逆に、責められる

etc...


この2つで共通しているところは、自分の苦しい気持ちを話しても大丈夫という雰囲気がなく、そして、それを聴いてもらうことが出来なかったということです。

問題が解決しなくても、アドバイスなんかもらわなくても、ただ、気持ちを聴いてもらえるだけで、心は癒されます。


お父さん、お母さん

あまり難しく考えずに、ただ、子供さんの話を、子供の気が済むまで聴いてあげて下さい。

子供の本当の望みは、たったそれだけのことなのです。

たった、それだけのことだけど、子供にとっては、この世で最も大切なことなのです。

十分に気持ちを聴いてあげた後には、子供は元気になって、勝手に問題を解決しはじめているはずです。


※話の聴き方は、そうかそうかムーブメントを参考にして下さい。

2008年6月22日日曜日

罪と罰(3) 性善説と性悪説について

当初の予定とは異なるのですが、「罪と罰(2)」に関連して、最近自分なりに理解したことを書いてみたいと思います。

ここに書くことは、「罪と罰(2)」と同様、ニュースなどからの印象だけからの文章ですから、参考程度にお読み頂ければと思います。

現代においては、凶悪犯罪に対する考え方は、人は『性善の人』と『性悪の人』の2つに分類されるという考え方が前提にあるように感じています。

そして、重罪には重罰という考え方の他に、『性悪の人』を見つけ出し社会から排除するという雰囲気も含まれているような気がします。

『性善の人』と『性悪の人』の切り分けの判断材料のひとつに、『計画的』か『発作的』かという基準を使っているように感じています。

また、『性善の人』を、極刑から救済するための考え方として取り入れられたのが、『責任能力の有無』という考え方のもともとの目的だったのではないかと想像してみました。

すると、現在の極刑に関わる考え方の筋道が理解できたような気がしました。

人を『性善の人』と『性悪の人』に分けられるという考え方が正しいか誤っているのかについては、私はよく分からないのでここでは何も書きません。

ただ、仮に、『性善の人』と『性悪の人』に分けられるという考え方が正しいとした時、その区別を計画的犯行か発作的犯行かで切り分けるのは短絡的過ぎるような気がしています。

それは、発作的と計画的の差異が発生する要因として、次のようなことが言える場合があるからです。

一概には言えないのですが、発作的にしろ計画的にしろ、両者には『誰にも気持ちを聴いてもらえずに、我慢を溜め込む』という共通の傾向性があるように思います。



そして、我慢を溜め込んでいくうちに、

・我慢が限界を超えてしまった時

・相手に我慢している内容を言うことが出来た時

発作的になりやすいところがあり、



我慢が限界に達しているのに

・それでも、相手を目の前にして我慢できた時

・それでも、相手を目の前にして我慢していることを言えない時

計画的になりやすいところがある



という面もあると思います。

もちろん、犯罪に至らない人はたくさんいますし、全てがそうと言えるわけではないかもしれませんが、そういう部分があるのは確かなことだろうと思います。

いずれにしても、溜め込む前の早い時期に、誰かに気持ちを聴いてもらうことはとても大切だと思います。



【参考】 : そうかそうかムーブメント

2008年3月29日土曜日

幸せだと感じるために

幸せは求めるものではなく、その真っ只中に居る時、或いは、後になって振り返ったときに思うものだろうということは、以前、どこかで書かせていただいたと思います。

そして、そう思えるように、今を如何に過ごせば良いかというと、「今の自分は、何によって一番満たされるのだろう?」ということを具体的にイメージしておくことは大切です。

満たされるものとは、そんな大げさなものではありません。

例えば、今日のお昼は、カレーライスを食べれば、一番満たされるかも知れませんし、明日は、親子丼を食べれば、一番満たされるかもしれません。

カレーを食べる時、らっきょうがあれば、もっと満たされるかもしれません。

のどが渇いたら、「水を下さい」とお願いして水を持ってきてもらったら満たされ、その水を飲んだら更に満たされるかもしれません。

そんな感じに些細な望みが、一つ一つ叶っていけば、そんな生活に対して、「満たされていない」などとは思わないだろうと思います。

もし、その日の望みが、カレーライスを食べること一つだけだったとしたら、カレー屋さんがおやすみだったら、満たされることはないだろうと思います。

その日の自分が満たされるためには、何が何でもカレー屋さんが営業している必要があります。
しかし、望みが他にあったらどうでしょう。

別にカレー屋さんの営業にこだわらなくても、他のことで満たされる可能性が出てきます。

そして、もっともっとたくさんの願いがあったらどうでしょう?

恐らく、満たされないことが、満たされることの陰に隠れて、目立たなくなっていくのだろうと思います。

ここまでの話とは別の見方になるかもしれませんが・・・

私たちは、実は、1秒1秒、色々なことを願い続けていると言ってもいいところがあります。

しかも、それは大それたことではなく、ほんのささやかな願いなのですが、そのことに気付いていない場合がとても多いのだろうと思うのです。

そんな自分の1秒1秒の願いに気づくことが出来たら、自分をたくさんの願いで包み込むことができ、そのことが自分の気持ちを満たしていくことにつながるのだろうと思います。

例えば、食堂で「しょうゆを使いたい」と望んだとします。

「しょうゆをとって下さい」と、たまたま右隣に座っていた人に頼みます。

その人は、無視してしょうゆをとってくれませんでした。

特に何も感じなかったら、自分が立ち上がって、しょうゆをとってきて、しょうゆを使うことが出来れば、満たされると思います。

もし、しょうゆをとってもらえなくて悲しい気持ちになっていたとしたら、その時点で、一番望んでいることは、しょうゆをとってもらうことではなくなっているのだろうと思います。

しょうゆにこだわって、怒鳴ってその人にしょうゆをとらせたところで、そのときの一番の望みではないのですから、それでは満たされないだろうと思います。

では、そのとき、自分を満たすための一番の望みは何なのでしょうか?

望みは1秒1秒変わるのです。

大きな目標を立ててそれを実現することで満たされようと考える人は多いかもしれません。

しかし、自分を満たすためには大きな目標は要りません。

大きな目標は、自分の人生をおもしろくするために立てるものだろうと思います。

そして、それが実現しようがすまいが、それに取り組み始めたその時ですら、心を満たすことはできるのだろうと思うのです。

何かを感じていただければと思います。

2008年2月26日火曜日

なぜ人々は『タブーの番人』化していくのか

まず、タブーの定義ですが、本来の意味は違うかもしれませんが、現代の人々が使っているニュアンスから

・本当のことだけど言ってはいけないこと

・その場では触れてはいけない話題


と理解して、話を続けていきたいと思います。


最近、テレビに限らずに、他人の発言に、『その発言は不適切だ!』とか、『そんな発言をするべきではない!』と食って掛かる人が増えてきているように感じています。

「そんなこと言わないほうが良いのになぁ~」とかいうような穏やかな感じではなく、発言した人を叩き潰そうとする勢いすら感じてしまうのです。

なぜ、そのような気持ちになってしまうのかについてちょっと想像してみたいと思います。

その環境に少しでもタブーがあると、そこには重大な問題が存在していることを示しています。

そこには、『それを言えば、自分が痛い目に合う何かか起こる』ということを、その環境に存在する大方の人たちが感じてしまっているということです。

ですから、それを言わないように細心の注意を払いながら生活しなければならなくなります。

話は変わりますが、『優しさ』にこだわっている人は、優しいかどうかについてとても注意を払いながら行動しています。

その結果、『優しさ』を実現するために、したくもないことをしてみたり、他の人が優しいかどうかがとても気になったり、してしまいます。

これは、何かが気になる事によって、『我慢し続ける』という状況を発生させてしまっていることを意味します。

そして、その我慢を蓄積させてしまい、終いには、『あなたは全然優しくない!私はあなたにこんなに優しくしているのに!』と相手を責めるようになってしまいます。

話を戻すと、『タブーの番人』となってしまっている人は、発言にすごく気を使いながら暮らしているのかもしれないと思えます。

その背景には、何かを言って、誰かに責められてつらかったような経験があるのかもしれませんし、誰かがそんな目にあっているのを見て、とても嫌な気持ちになった経験があるのかもしれません。


話は、優しさに戻りますが・・・・。


人は、いつもいつも他人に優しくできるわけではありません。

・優しくできるときは優しくしてあげられる。

・優しくしてあげられないときは、優しくしてあげられない。(もっと良いのは、『優しくしてあげられないときは優しくしてもらう。』かなって思います。)


優しくしてあげられない状態に陥った人に対して、あなたが優しくしてあげられるときに、優しくしてあげるのが、本当の優しさのような気がするのです。

地球には、たくさんの人が生きています。

ですから、あなたがつらいときには、あなたの目の前の人に、あなたが優しくしてあげることに、責任を持たなくてもいいのだろうと思います。

「今は、私もつらいから、優しくしてあげられなくてごめんね」と断ってもいいのだろうと思うのです。

なぜなら、あなたの他にも、その人に優しくしてあげられる人がたくさん居るのだから・・・・。

逆に、そんな時は、自分に優しくしてくれる人を、たくさんの人の中から探し出しましょうよ。

今意識している人以外にも、あなたに優しくしてくれる人は、たくさん居るはずですから・・・。

みんな、頑張りすぎないで・・・


2008年2月2日土曜日

ロボットの反乱

SFの映画(例えば、ターミネーター、マトリックス、アイ・ロボット・・・)などで、ロボット(コンピューター)が意思を持ってしまい、人間に対して反乱を起こすといったストーリーがちょくちょく作られます。


それを見ていると人間の形をしたコンピューター制御のロボットが反乱を起こすというのが、共通点としてあるようで、コンピューターの人間に対する反乱はそのような形で起こると、私は思い込んでいたところがあります。

しかし、最近、「コンピューターの人間に対する反乱は、実は既に起こっているのではないか!?」と思うようになりました。

そんな話を書いてみたいと思います。

とりあえず電製品なのですが、昔はその操作はアナログ的といいますか、比較的多くの調整を、それを使う人が自由に行うことができました。
(家電製品オンチの人には煩わしいことだったかもしれませんが・・・)


ですから、例えば、エアコンの暖房で風量を強に設定すれば、容易に強風を吹き出させることができましたし、ステレオの高音や低音の強弱を調整することも容易でした。


しかし、最近の家電製品はそうはいかないものが増えてきていると思います。


・エアコンは、強風に設定しても、エアコン(のマイコン)が、それを妥当だと認めない限りは強風を吹き出してはくれないもの

・ステレオの音質の調整も、予め用意されている「クラッシック・モード」や「POPSモード」などのモードから逸脱した設定を許してはくれないもの

そんな機器が増えてきているように思います。


自動車などもそんな感じの部分があるように思いますし、他にも、探せば色々あると思います。


これは、マイコンのプログラムの仕様の影響を受けているということになります。

その予め想定された仕様を逸脱しては利用できないのです。

調整できる機能がないのと、機能はあるけどその調整はマイコンが勝手にやってしまうというのでは、意味合いが全く異なってくるのではないかと思うのです。

そして、このようなことを『ロボットの反乱』と呼んでも良いように思うのです。

(正確に言うと、人が作ったシナリオへの束縛ということになるのかもしれませんが・・・)


話は少し変わりますが・・・・、


私の『心』に関する結論なのですが、ロボットやコンピューターが意思を持ったように見えることがあっても、それは、所詮、人が組み上げたプログラムがそう感じさせるようになるだけで、『自己』というものを決して持つことはないと思っています。

たとえ、『心』をもつロボットを作ったとしても、それは決して『自己』を持ったことにはならないのだろうと思うのです。
(『心』と『自己』の違いが、上手く説明できていないので分かり難いかもしれませんが、でも、何となく雰囲気的に分かって頂けたらなって思います。)


話を戻します。


マイコン制御が浸透しすぎると、人は、人が作ったマイコンを制御するためのプログラムに適応することに迫られます。

しかし、プログラムは、所詮、人の浅知恵で、それを作る人(或いは、作る集団)の想定以上のものは作ることは出来ません。
(想定外のことがあったとしたら、それはただのバグ(不具合・設計ミス)です。)

そんなものよりも、人が適応すべきなのは、人知を超越した大自然や自分自身ではないかと思うのです。

人間社会に生きている以上、社会に適応していくことは必要だと思いますが、せめて、機械くらいは自分の意志で自由に操作したいものです。

機器以外は、テレビゲームは人が作ったシナリオへの束縛という意味では、象徴的なものかもしれません。

ゲーム中に遊ぶ人の想定外のことが起こったとしても、所詮、作る人が想定したアイディアの一つに過ぎないのです。


結論ですが、ロボットの反乱とは、

■ ロボットが意思をもって人に逆らう事ではないのだろうと思います。

■ 一部の人の考えがプログラムに置き換えられてそれに人が操られるようになること、そして、そんな部分的なプログラムが無数に放出されて社会に蔓延してしまうことではないかと思うのです。


テレビゲームなんかしてないで、遊びたかったら外に出ましょう。

人恋しかったら、人に会いましょう。

音楽が聞きたかったら、コンサートに行きましょう。

たぶん、もう少し時間は掛かるかもしれませんが、今の状態が長く続くと、人の心は自分でコントロールできないモヤモヤが鬱積して、自然にそんな流れも生じるのだろうとは思います。

言いたいことを上手く書けた自信がありませんが、何かを感じて頂けることを願っています。


訳の分からない文章を最後まで読んで下さりありがとうございました。