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2007年12月29日土曜日

2つの気持ち

例えば、あなたの子供が「学校に行きたくない!」と言ったとします。


あなたはどのように対応しますか?

たぶん、次の2つはどちらにしろ誤っていると思います。

■学校に行きなさい。

■学校に行かなくても良いよ。


このとき、子供には2つの気持ちが存在するのだろうと思います。

■学校に行きたい   【行きたい】

■でも、事情があって学校にいきたくない  【行きたくない】


しかし、子供は「学校に行きたくない」という言葉で表現するので、うっかりしていると、もう一方の気持ちを見過ごしてしまいます。

子供は、「行きたい」という気持ちに気付いていないことがほとんどだろうと思います。

このような場合の2つの気持ちは、「あっちを立てれば、こっちが立たない」というような相反する気持ちであることは何となく理解していただけると思います。

ですから、前に書いたように、「行きなさい」という対応も、「行かなくても良いよ」という対応も間違いということになるのです。


そこで、大人の役割の主なところは

1.2つの気持ちがあることに気付かせてあげること
2.「行けない」事情を理解してあげること
3.事情が大丈夫になれば「行きたい」ということに気付かせてあげること
4.事情によって生じている気持ちが大丈夫になるまで、そばに居てあげること

ということではないかと思っています。



〔余談ですが・・・〕

「行かなくて良いよ」といった対応は、その時は、「自分の気持ちを大切にしてくれている」というように思えてしまうのですが、その攻撃が心にボ ディーブロウのように蓄積して、たぶん、「何だか分からないけどイライラする」といった状態につながることが多いような気がしています。

違う例を挙げると、「父親を避ける子供」が父親を避けることを、母親が手伝うのも同じような状況だと思います。

やっぱり子供は、口では「父親が嫌い」と言っていても、大好きな父親であって欲しいと願っているし、そんな父親と仲良くなりたかったりするのです。



話を戻します。


子供がこのような状況になる都度、前に書いた4つのことを大切にするような対応してあげることで、大人になってからも、仮に「死にたい」と思うこと があったとしても、自分自身がそのような気持ちになる事情を理解し、そして、その事情が解決すれば「自分は生きたいんだ!」ということを、親の他人のサ ポートが無くても、自分の力で自覚できるようになれるのではないかと考えています。



【補足】

「気持ちが大丈夫になる」ということ、そして、その方法については、私のサイトの色々なところで説明していると思いますので、そちらを参考にして下さい。

2007年12月24日月曜日

罪と罰(2) 精神鑑定について

私は精神鑑定について研究している訳ではなく、また、詳しく調べたわけでもないので、ニュースなどの文脈からだけの理解になりますが思うことを少し書いてみたいと思います。


「ちゃんと調べてから書け!」という部分が大部分を占めて、見苦しい文章なのですが、もしよろしければ、読んでみて下さい。


私が『精神鑑定』と聞いて思い浮かべるのは裁判です。

裁判において、その罪に対する罪状や量刑を決める流れの中で行われるという認識しています。

とりあえず、Wikipediaぐらいは見ておこう思って覗いてみました。

その背景について知りたかったのですが、期待していたようなことはかかれていませんでした。
(今後、記載される可能性もあるのでリンクだけ貼っておきます。)


精神鑑定(Wikipedia)

精神鑑定は、『その人に、責任をとる能力があるか』ということを見極めることを目的として行われると認識しています。

また、それが用いられるのは、人の生命に関わる犯罪に限られ、軽犯罪などでは用いられることは無いように感じています。
(実際はどうか分からないのですが・・・)

そして、その結果は、次のような相容れない2極に分離されるように認識しています。
(これまた正しい理解かどうかは分からないのですが・・・)


■『責任能力がある』と判断された場合 : 『有罪』

■『責任能力がない』と判断された場合 : 『無罪』


これは、人としては受け入れ難い概念なのですが、なぜか現代社会では当たり前のこととして受け入れられてしまっています。


そして、その結果


■『責任能力がある』か『責任能力がない』か?

■『有罪』か『無罪』か?


という、何の関係性もない2つの対比を、等価な対比だと主張するような不毛な議論を、いつも経なければならないところがあります。


罪を犯したなら、それは有罪で、無罪などということはありえないと思います。


ですから、一つの案としては、

責任能力があるのなら

1.責任をとる


仮に、責任能力がないという状態が存在するとした場合には、

1.責任をとれる状態になる

2.責任をとる



という流れにする方が、今よりはマシな流れになるのだろうと思います。


この流れだと精神鑑定によって「責任能力がない」とされてしまうと、まず責任がとることができる状態になるまで、期限の決められていない状況の中で 治療?(教育?)によって責任能力を身につけなければならなくなります。
(ただ、ここには精神病院と人権に関わる歴史のようなものも影響して、現在の形に なっているのかもしれませんので、真剣に考えるなら、その辺の背景をきちんと調べなければならないような気がしています。)


そして、能力を身につけた後、ようやく責任をとることができるという流れです。

つまり、責任をとり終わるまでの期間が長期化してしまうことになります。

ですから、責任をとれる人は、今とは、逆に、自らの罪を認めて責任をとることを望むようになり、現在のような、不毛な議論に時間を割かなくても済むようになるのではないかと思うのです


似たような本質を理解しない概念としてに『計画性』というものがあります。

これは、性悪説を前提にした考え方だと思うのですが、検討してみる余地があるように思います。

これについては『罪と罰(4) 人はなぜ犯罪を犯すのか』のところで、恐らく触れることになるだろうと思います。


そして、加害者と被害者或いは被害者家族に、本当の解決が訪れるような罰を含めた責任のとり方について、考えてみたいと思います。


【おすすめの本】

時代がつくる「狂気」 精神医療と社会

精神鑑定などが、どのような歴史をたどって現在の状況に至ったのかが、分かりやすく説明されています。
  • 精神鑑定の目的は、簡単に書くと「その被告人に必要なのは、罰なのか、それとも医療なのか」というの区別をつけること。
  • その際、「医療が必要」となったとき、医療側の対応によっては、直ぐ社会復帰させてしまい、罰も医療も不十分になることがあるという問題があった。
  • それを補うために2003年に『心神喪失者医療観察法』が制定された。
ということでした。



その他、精神病に関する認識や対処などの歴史的な移り変わりも説明されています。


参考 : 医療観察制度
http://www.moj.go.jp/HOGO/hogo11.html

【2009.04.22追記】

精神に関わる法などの現状や問題点をざっくりと理解されたい方は、次の本を読まれると良いと思います。
(大学の教科書のような本なので、読むには気合が必要です。)


2007年12月21日金曜日

メルマガ編集後記【No.0014】

今回のメルマガの結論に対する補足をしておきます。


【例:前編】

小さな男の子が、お母さんに連れられて公園にやってきました。

その子は、友達と滑り台で楽しく遊びはじめました。

ところが、滑り台でつまずいて転げ落ちて しまいました。

その子は泣きながら戻ってきて、「痛いよぉ~、もう、滑り台なんか、絶対にしない!」と言っています。

母親は、その子を見て「怪我が無くて 良かった」とひと安心。

でも、その子は全く泣きやむ気配がありません。

他の友達たちは、そんな事はお構いなしに、楽しそうに、滑り台で遊んでいます。

母親 は、「怪我が無くてよかったまた、友達と仲間に入って、滑り台で遊べるようにしてあげたい」と思っています。


【例:後編】

子供は、安心な気持ちになって、みんなのところに走り出しました。

そして、また、みんなと楽しそうに滑り台で遊びはじめたのです。

よかった!母親はホッとしました。



前編と後編の間で、母親は泣きじゃくるその子とどのように関わったら良いと思いますか?

いろいろなパターンが考えられると思いますが、概ね次のような対応をすれば、子供の気持ちは安心になって、親がどうこう言わなくても、自分から勝手に楽しい雰囲気の方に吸い込まれていくのだろうと思います。


■「痛いね、痛いね、もう滑り台なんかしたくないよね」という感じで、その時の子供の嫌な気持ちに、子供が納得するまで慌てずに寄り添う。また、合わせてスキンシップによって安心感も与える。


そうすると、このとき、子供は、「辛い気持ちは一人で我慢しなくても良い。辛いとき、優しくしてもらえたら大丈夫な気持ちになれる」ということを学ぶことができるのだろうと思います。


ところが、次のような対応をすると、学ぶことは180度変わってしまいます。


■大した怪我じゃないから、大丈夫だよ。みんなと遊んでおいで。

■男の子がそんなことぐらいで泣くものじゃないよ。

■お前は強い子だよね。大丈夫だよね。

■ほら、みんな楽しそうに遊んでるよ。お前も一緒に遊んでおいで。

■今のは、たま失敗しただけだよ。お前は上手にできるから大丈夫だよ。


これらは、言う側にそんなつもりはなくても、「辛さを感じないようにしなさい」ということを言っています。

ですから、いくら気をつけて優しく声をかけたとしても、子供は辛い気持ちを支えてもらえず、自分ひとりで耐えなければならなくなります。

そして、子供は、『辛い気持ちになってしまったら、自分ひとりで耐えないとしょうがない』ということを学びます。


『辛い気持ちを一人で我慢する』ということは、子供にとっては、滑り台で痛い思いをするよりも辛いことなのです。


しかし、このようなとき、子供は、ほとんどの場合、

1.滑り台で転んで痛い
2.痛さを自分ひとりで我慢しなければならないのはとても辛い。

という2つのことによって自分が苦しい気持ちになっていると認識することはできません。

そして、意識している原因と結果を直線的に結び付けて、「滑り台は転ぶから辛い」と考えるようになるのです。


繰り返しますが、本当につらいことは、「自分一人でつらさに耐える」ことなのです。

このような「つらさに耐えて乗り越える」という経験の積み重ねによって、次のような信念を持つような苦しみの人生へと送り出されていくことになります。

■つらい時は、感情を麻痺させ、感じないようにするしかない。(強い心になる、ポジティブ思考、みんな苦しいのだから・・・、普通のことだから・・・)

■辛さの原因は排除するしかない。(ストーカー的行動、他人を変えようとする(責める)、人間関係を切る、いじめる、訴える、クレームを言わずにはいられない)

■辛さの原因となった事象は避けるしかない。(恐怖症的反応)

■つらくならないよう良い出来事ばかりが起こるように努力するしかない。(のんびり休むことができない、やたら新しい事に取り組む、三日坊主、良い出来事のための努力を惜しまない)

■つらさは結局自分ひとりで解決するしかない。(引きこもり、うつ、いじめられる)



そうやって、頑張ってらいられるうちはいいのですが、嫌な気持ちを解決することなく、他のことでごまかし続けていると、原因の分からないモヤモヤや苦しみのような感覚をいつも心に感じるようになってしまいます。


そこで、次に、

■苦しみの原因として相応しいものを、無理矢理に見つけ出し、その解決に取り組むようになる(コンプレックスや問題行動などの)

■じっとしていると嫌な感覚を感じてしまうので、ひたすら何かに打ち込むようになる。(仕事、勉強、気分転換や趣味などに没頭する)


それでも、感情や感覚を無視して頑張っていると、心身ともに疲れてしまい

■心身のバランスが崩れ、身体症状が現れる

■無気力になる(うつ状態になる)

ざっくりいうと、そんな経緯をたどるような気がしています。


このとき、上記のどのような症状や状態にあるのかということは、意識の方向性が違うということだけのことですから、大して重要な事ではありません。

ただ、「辛い気持ちは一人で我慢しなくても良い。

辛いとき、優しくしてもらえたら大丈夫な気持ちになれる」ということを知らない、或いは、信じられないだけなのです。


ですから、それを信じ、実践していくだけで、心は晴れてきます。


すみません、うまく補足説明ができたかどうかわかりませんが、何か参考になる部分があることを願っています。

2007年12月19日水曜日

それでも子供は母親を愛していた

小さな兄弟が、母親に1ヶ月以上置き去りにされていたという事件のニュースを読んで、何とも言えない気持になりました。
幼い長男(5)と三男(当時1)を自宅に1か月以上置き去りにし、三男を死亡させて死体を遺棄したとして、母親に懲役15年の判決が下された。生き延びた 長男は生の米や生ゴミ、冷蔵庫にあったマヨネーズで飢えを凌いでいた。2人とも「死んでいる」と思って自宅に帰った母親に、長男はそれでも、「ママ遅い よ」と駆け寄った。
J-CASTニュース : 生ゴミ、生米くらって餓死免れた! 鬼母に遺棄された5歳の「地獄絵」
2人とも「死んでいる」と思って自宅に帰った母親に、長男はそれでも、「ママ遅いよ」と駆け寄った。

「ママ遅いよ」

悲惨な状況の中でも、信じて母親を待っていたというその子の気持ちを感じ、何とも言えない気持ちになりました。

その子を抱きしめてあげたいと思いました。

詳しいことは何も調べていませんので確かではないのですが少し想像できる事を書いておこうと思います。

たぶん、社会的には、「子供を置き去りにした母親が問題のある人物だったために、そのような行動をした」といったの認識をすると思います。

でも、たぶん、本質はそうではないと思っています。

この母親がどのような家庭環境で、どのような思いをしながら子供時代を過ごしたかということをきちんと調べると、たぶん、かなりの確率で、「つらい とき、悲しい時、苦しい時に、誰にも抱きしめてもらえずに、ひとりぼっちで我慢していた」という状態だったということが分かるのではないかと思います。

「そんな子に育てた覚えはない!」

これは、私が子供の時によく耳にした言葉です。

当時は、「『そんな子』と呼ばれるような人になってしまったんだ」」と本気で思っていたような気がします。

しかし、親以外、その子を育てた人はいないのです。

子供の友達や学校の先生ののせいにすると、親の気持ちが楽になることはあるかもしれません。

でも、冷静に考えてみると、『自分がその子を育てた』という事実からは、逃れることはできません。

本当の問題は、その子が『そんな子に育った』ということではなく、親に『自分がそんな子供に育てたのだという自覚が無い』ということだと思うのです。

この事件の場合、その母親だけを責めるのは、社会という親が、子供に「お前をそんな人間に育てた覚えは無い」と言っているのと同じ構図になっているような気がします。

犯罪に対してただ罰を与えるだけの対応をしていると、人の気持ちにますます目が向かない社会になり、犯罪は減るどころか、今後も増え続けていくのではないかと思うのです。

人を傷つけたり犯罪を犯すことは、許されるべきことではありません。

でも、その人の人生の全てをきちんと理解したとき、きっとその人に対しても涙を流してあげられるだけの事情があるだろうことも、何となくでも良いので思ってあげて欲しいと思うのです。

そして、今の社会に、そんな互いに理解し合おうとするような暖かい雰囲気が広がっていくことが、きっと、このような悲しい事件を防ぐことにつながるのではないかと思うのです。


最後に・・・、


この事件の記事を読んで、子供は親を愛しているということは、確信して良いことだろうと思いました。

だから、子供にどう対処して良いか分からなくても、親はただ抱きしめてあげようとすれば良いのだろうと思います。

子供が大人になって、反抗的な態度をとったり、小難しいことを言ったりしていても、本当は、ただ、親に抱きしめてもらいたいだけなのだろうと思います。

それ以外は、何も要らないと言っても過言では無いように感じています。

あなたは、子供を抱きしめてあげていますか?

あなたは、親に抱きしめてもらってますか?

もし、抱きしめてもらうことが難しいとしたら、ちゃんと抱きしめてくれる誰かを探しませんか!


2007年12月16日日曜日

カウンセラー・カウンセリングに対する誤解

ここ数年、事件や事故が起こったとき、行政や団体はその対策の一つとして、「カウンセラーを派遣した」「カウンセラーを配備した」などと発表することが多くなってきたように感じます。

そこでちょっと感じる心配について書いてみたいと思います。

カウンセラーを配備したということによって、その目的が実際に機能しているのか

(つまり、「そうやって配備したカウンセラーを実際に利用している人 はいるのか?救われている人はどれだけいるのか?」といったこと)

というと、イマイチ不明なところがあります。

(私が、検証報道に気付いていないだけなの かもしれませんが・・・。)


しかし、行政や団体側には、そのように対応する大きなメリットがあります。

カウンセラーを配備したということによって、「心理的なサポートも配慮した」ということで、将来の責めに対する免罪符が与えられるような雰囲気が今の社会にあるからです。

カウンセラーやカウンセリングという言葉を使うだけで、心理面のサポートも含めてトータル的な対策をしていることをアピールできるからです。

そのような流れで、今、「事件・事故 = カウンセラーの配備」という方程式が、深い考えのないところで浸透しつつあります。
(浸透させる役割は、深い考慮のないところで報道してしまうマスコミが担っています。)


もともと(それは数千年レベルでさかのぼるのかもしれませんが・・・)は、カウンセラーやカウンセリングというものは、必要なかったのだろうと思っています。

身近な誰かとのコミュニケーションの中で、人の心は十分に癒されることが出来たのだろうと想像しています。

それが、「価値観の多様化や社会の変化に伴って、人の心が癒される機会が減ってきてしまっている」、或いは、「機会があっても、そこでどのような関わりが行われれば、人の心が癒されるのかが分からなくなってしまっている」だけなのだろうと思います。

そのちょっと分からなくなっている部分を補完するのが、カウンセラーやカウンセリングなのだろうと思うのです。

そして、やっぱり、本当は人は身近な人に救われたいだろうと思いますし、身近な人によって救われるべきなのだと思います。


このようなことを考えずに、「人の心を救うことができるのはカウンセラー」というような印象付けをすることは、「人の心を救おうとしている」という与えられる印象とは裏腹に

・人が人の心を救えないということ、

・心を大切にする以外のところでの活動を重視すること

に拍車を掛けるだろうと、とても心配しています。



「事件・事故 = カウンセラーの配備」という方程式が広まってしまうと、今、かろうじて残っている癒しのコミュニケーションも、その人間関係から剥ぎ取っていてしまうことにつながりそうに感じるのです。

今の流れでカウンセリングやカウンセラーが社会に受け入れられていくことは、社会や人の心の荒廃につながりそうな気がするのです。

本当は、将来的には、今カウンセリングやカウンセラーが補完している機能は、再び、身近な人間関係の中に戻っていって、カウンセラーなんていらなくなることが望ましいのだろうと思っています。


今の私の役割は、それまでのものだろうと思っています。


2007年12月12日水曜日

罪と罰(1) 犯罪の予防について

最近、現代社会の罪と罰ということに関連して、ちょっと思うことがあるので数回に分けて、少し考えてみたいと思います。

【予定】

1回目 犯罪の予防について

2回目 精神鑑定について

3回目 加害者と被害者や被害者の家族にとっての本当の解決とは

4回目 なぜ、人は罪を犯すのか

今回は『犯罪の予防について』ということで書いてみたいと思います。


■□■□犯罪の予防について■□■□

専門的に研究したわけではないのですが、現代社会の基本的な考え方は、感覚的に次のように理解しています。

■犯罪を犯した人に罰を与え、再犯することを防ぐ。

■また、罰せられるということを周知徹底することで、犯罪抑止につなげる


簡単に書くと『罰を恐れさせて人々を抑制する』ということになるのだろうと思います。

だから、ストーカー被害などのような、「将来の犯罪につながるかもしれないけどまだ起こっていない」ことに対処するのは、難しいだろうと思います。

でも、積極的に「犯罪につながりそうだ」という部分を取り締まれば、究極的には、マジョリティがマイノリティを抹殺するところに至ってしまうかもしれないので怖い感じがします。

ですから、まず、現状の考え方による仕組みが正しく働くように、調整してみることが大切なような気がします。

それでも、うまく機能しないようなら、別の発想が必要になってくるのでしょう。


今あるシステムは、

1.警察
2.検察・弁護士
3.裁判所
4.マスコミ(或いは、広報や公示など)

によって実現されるものだと考えています。


この4つ目がどうも機能していない感じがしています。

犯罪者が逮捕されたというニュースはしばしば見かけますが、どのような犯罪でどのような刑罰になったのかという報道は、特殊な場合を除いては、ほとんどなされていないような気がします。

それでは、罰に対するリアリティをあまり感じられないだろうと思うのです。

「今日の刑罰確定情報」みたいな感じで、「犯罪とその結末としての罰」の情報を、日々のテレビニュースや新聞で報道し続けることが必要なのではないかと思います。

そうすれば、とりあえず、現在の考えによる犯罪抑止は、今よりは機能するようになるかもしれないと思うのです。

しかし、根本の解決にはなりません。

「なぜ、犯罪を犯してしまうのか」

そのことについては、別途考えてみたいと思います。


2007年11月28日水曜日

逃れられない真実

悩みにはまり込んでしまう時、我々は見失ってしまっている真実があります。


『人間は、如何なる状況においても、その時々の自分にでき得る限りの努力をしている』という事実からは逃れる事ができない



悩みにはまり込んでしまっている時、この真実を受け入れることができなくなってしまっています。


逆に、このことを受け入れることができたとき、きっと、悩みから解放されるだろうと思います。

2007年10月30日火曜日

メルマガ編集後記【No.0013】

今回のメルマガでは、目の前に問題が生じているとき、その解決しようとするときに陥り易い「現状を受け入れる」という思考について考えてみました。

そして、「何かを受け入れる」ということを前提に説明した方が理解しやすいと思ったので、「受け入れるべきものは自分の感覚や感情である」という流れの説明をしました。

しかし、もう少し正確に説明しようとすると、少しニュアンスが変わってきます。


次の例で少し考えてみたいと思います。


【例】

例えば、小便がしたくなったら、特に深くは考えることなく当たり前のようにトイレに行って、用を足すことができると思います。

ところが、トイレに行くと100人以上の行列ができていました。

このとき、どのように考えるでしょうか?

恐らく、次のような対立する言葉が、脳裏を横切るだろうと思います。

・用を足せる/用を足せない
・我慢できる/我慢できない
・ついていない/ついている


ここから考えると、「私たちの自然な営みが妨げられた時このような対立する言葉が浮かぶ」というように考える事ができると思います。

そして、自然な営みを完結できたとき、その考えから解放されます。

逆に考えると、私たちがこのような対立する言葉を意識してしまっている時、「私たちの自然な営みの某かが妨げられている状態」と考えることもできるのではないかと思います。

私たちは、過去の経験によって、対立するどちらかの言葉を、解決策、または、問題点として認識するような傾向性を身につけてしまっているところがあります。

しかし、それらの言葉のどちらの側に立ってみても、それを深く掘り下げてみたとしても、大して意味のあることとは思えません。

なぜなら、放尿したいだけなのですから。

対立する言葉のどちらかについて深く掘り下げる事ではなく、どうやって放尿するのかを考えることが大切なのです。

直ぐ近くに空いているトイレがあることに気付いたり、さっきまでの行列がもうなくなっていることに気付いたりするだけで、それは済ませることができるかもしれません。

この例のように、生理現象であれば、割り合い理解しやすいところがあると思います。

そして、生理現象以外にも私たちにとっての自然な営みはあるということを認識する事が大切です。

  • 嬉しいときには喜ぶ
  • 悲しい時には泣く
  • 寒ければ暖かくなるようにする
  • 苦しい時には泣く
  • 疲れたら休む
  • やる気の出ないときは、無理にやろうとしない
  • いじめられたら悲しい
  • 褒められたら嬉しい
  • 失敗したら悲しい

挙げればキリが無いのでこのくらいにしておきます。


最後にメルマガの内容をトイレの例で表現しておきます。

あなたは、放尿したかったということを忘れてませんか?

そのことを思い出して、さっさと用を足してしまいましょう


ちなみに、何をすれば放尿したことになるのかというと、
「理解してくれる人に、感情や感覚を話し、聴いてもらうこと」です。

(事実や評価を話すだけでは、放尿できません!)

2007年9月22日土曜日

ブログのURLが変更になりました。

このブログのURLが変更になりました。

新URL:http://blog.pureheart-counseling.com/

ブックマークをして頂いている方は、変更して下さい。

2007年8月15日水曜日

メルマガ編集後記【No.0012】

今回のメルマガは、かなり長文になってしまいました。


(バックナンバー:メルマガ「読むカウンセリング」(No.0012) 『楽』になっても良いんです)


各章の論理的なつながりは、うまくできていないかもしれませんが、読み終わったあと、心の中で各章の内容が何となく結びついて、ぼんやりと何かを感じて頂けることを願っています。


メルマガでは、「どっちにしても、『自分の中の嫌な気持ち』からは逃げられない」という論調で説明しました。

でも、正確に表現すると、『本当の気持ちから逃げられない』ということです。


本当の気持ち、そこには様々な感情(嬉しい、悲しい、寂しい、楽しい、つらい、苦しい・・・)が含まれます。メルマガではそんな感情に絞って説明したわけですが、そこには、自分の本当の望みも含まれています。


メルマガの例で言えば、「大勢の前で話す」ということに、何の興味も無いのなら、大勢の前で話そうが話すまいが、別に、どっちでも良いことです。


話さなくても、自分の気持ちは、サッパリしたものです。


しかし、そこに「大勢の前で話してみたい・・・」という望みが、例え僅かでもあるのなら、その自分の望みを大切に思い、それを叶えていこうとするということも、自分の気持ちから逃げないことになります。


そんな時、自分の中に生じたネガティブな感情や感覚を、自分自身が優しく受けとめ癒やすことができれば、きっと、願いを大切にし続けることにつながるだろうと思います。


結局のところ、私たちが『逃げる』ということを意識した時に


■目の前の課題から逃げる

と思っていたことは、直接の動機としては

■嫌な気持ちから逃げる

ということではあるのですが、その構図を全体を眺めた時に

■自分の願いから逃げる

ということになっているのだろうと思います。



そんな構造的なところからで身に着いた習慣や感覚によって、『心が楽になる』という一番手に入れたいことの実現を目前にすると、そこから逃げたくなる感じが生じてしまうのかもしれません。


「楽になるって、逃げることにはなりませんか?」という質問の意味は、そういうことではないかと思います。


願いが叶っても良いんです!


願いが叶う事に臆病にならず、次々に、願いを叶えていきましょう!


例えば、「いつか、きっと、海外旅行をしよう」と夢見ているとしたら、とりあえず言ってしまえば良いのです。


その気になれば、案外、簡単に実現することは多いということが体験で理解できると思います。

2007年7月25日水曜日

メルマガ編集後記【No.0011】

メルマがでは「泣けば心は安心になる」というような書き方をしました。

(バックナンバー:メルマガ「読むカウンセリング」(No.0011) 「あの頃の自分」に戻りたい )

しかし、いきなり「泣け」と言われても、多分、ほとんどの場合泣くことなどできないと思います。

では、実際の場面では、どのように対処すれば良いのでしょうか?

それは、「正しく相談」するということを意識すれば良いのです。


ここで相談と愚痴の違いについて説明しておきます。


普通、相談と思われている行為は、出来事や状況の説明し終始することがとても多いように感じています。

この場合、相手の反応と自分の達成感という2つのポイントがありますので、その2つについて説明します。

1.相手の反応

本人は、一生懸命説明しているのですが、それを説明された方は、どのように対処したら良いのか困ってしまいます。


そして、それなりに精一杯考えて
  • 問題の解決方法を考えて教えてあげたり
  • 自分の経験談を話したり
  • 自分の考えを話したり
  • 一般論を引き合いに出しながら励ましたり
大体、そんな対応になりがちになってしまいます。


しかし、そのようなやりとりで、相談した側が満足できるのは、相手が自分とおなじように評価していると感じられたときに限られます。

たとえば、誰かの悪口を言ったとき、相手が同じようにその誰かのことを悪く言ってくれて、初めて、何となく心が満たされたように錯覚することができるような感じです。

しかし、実際は、ものごとには、いろいろな側面があり、また、それを評価する人にもさまざまな価値観があり、自分と同じように評価することを相手に強いるのはかなり難しいことです。

ですから、自分の好ましい反応をしてくれた人にこだわり、その人にこだわってしまうようになってしまうこともあります。

2.自分の達成感

誰かに嫌なことについての説明をしても、言いたいことが話せていないような、未達成感を感じることがあります。

そして、その未達成感があるから、また、別の人にも同じような話をしてしまったり、別の機会に同じ人に同じ話を繰り返してしまったりします。

たとえば、自分のコンプレックスをのようなものを、新しく出会ったこれから友達になるかもしれない人すべてに話さないといられないような感じがするのも同じようなことかもしれません。

しかし、実際問題、すべての人に自分の悩みを打ち明けることなどできませんし、それで、何かが解決するとも思えないのは、その人自身が知っていることだと思います。

これは、肝心なことを話せていないことから陥る感覚だと考えています。

ではどうすれば良いのか?

あえて難しい表現をすると、客観を話すのではなく主観を話さなければ相談にはなりません。

そして、きちんと相談できれば、気持ちは楽になるのです。


これが、今回のメールマガジンのポイントです。

・あいつは、こんなことするなんて、本当に嫌なやつだ

ではいけません。


・あいつに、こんなことをされて、自分は嫌な気持ちになった

という感じです。


もっと省略してもいいかもしれません。


・自分は嫌な気持ちになっている

このことを相手に理解してもらうことが大切なのです。


「自分が・・・な気持ちだ」と言えば、相手は、「そうか、そういう気持ちなんだな」と受けるしかなくなります。


相手の価値観に左右されるところは排除されるのです。


そして、相手は、それだけでは理解できないので、「ところで、どうしてそんな気持ちになったの?」と、自然な流れでもっと理解しようとしてくれることは多いと思います。


苦しかったりつらかったりするときは、そんな会話をしていると、自然に涙が出てきることも多いと思いますし、泣かなくても、気持ちは次第に楽になっていくはずです。



■事実関係ではなく、気持ちを話す。


事実関係のことは、そんな気持ちになった事情を理解してもらうための補足説明程度の位置づけでしかないのです。

気持ちをきちんと話す。

それが、愚痴を繰り返すことから脱し、きちんと相談し気持ちを楽にすることにつながるのです。

気持ちをきちんと話す。

私たちは、自分がどう感じているのかを、きちんと分かってほしいだけなのです。

だから、気持ちを話さなければ、何も始まらないし、そして、何も終わらないのです。

そして、ひとりの人にきちんと話すことができれば、他の人に話す必要はなくなります。


しかも、話した相手にすがるような囚われからも回避できるのです。


2007年5月24日木曜日

報道番組の見方

私が未成年の頃、親から「そんなテレビばかり見てたらあほになる!」なんてことを言われることがありました。

その対象となる番組は、大体、バラエティー番組と分類されるものだったのですが、最近、「あほになる番組」は、どうもバラエティではないような気がしてきました。


今回は、そんなお話をしてみたいと思います。


では、どんな番組が「あほになる番組」??


それは、自分でも意外だったのですが、報道番組なのです。


バラエティ番組は、視聴者はバラエティ番組と思って見るので、その内容をそのまま受け入れる事は割り合い少ないところがあります。(捏造事件などはありましたが・・・)

しかし、報道番組は、彼らは、「ジャーナリズム」とか言って、あたかも真実を報道していると錯覚しているようなので、我々への影響がちょっと変わってきます。

報道番組の枠組み自体に問題があるのですが、皆さんは、その異常性に気付いていますか?
大方の報道は次のような流れになっています。

  1. 事件が起こる
  2. できる限り早く、事件について報道する
  3. そんな報道の中で、連れて来られた専門家が、憶測を話させられる
  4. キャスターと称する人が、表面的な事象を捉え、それに関して社会に受け入れられると思うコメントを話す。
  5. 事件の種類によっては数日騒ぎ立てる
  6. おわり

この『おわり』というのが非常に問題なのです。


事件が起きた直後や、事件が起こっているときに、その真実など分かるはずがないと思うのです。

ですから、そこで『おわり』ということは、報道には真実はないということになります。

しかし、彼らは、表面的なことからの憶測していることを、どうも真実を追求していると勘違いしているような気がします。

また、無意識に、いい加減な修飾語を付与してしまい、社会がそれをそのように評価していると思わせてしまうところもあります
(※ 修飾語はあなたのものを参照)。

詳しくは覚えていないのですが、先日も、「精神科に通院歴のある少年が・・・・」なんて報道の仕方をしていました。

それを無防備に聞くと、それが結論のように聞こえてしまいます。

しかし、真実は、別のところに確かに存在するのです。

次に、報道を見る側についてです。

『ニュース』や『報道』という言葉から、そこでは、事実や真実が語られているような印象を受けてしまい、報道された事を、真実として受け入れてしまいがちになってしまいます。


しかし、繰り返しになりますが、事件が起こった直後になんか、その真実が分かるはずがないのです。


つまり、我々、視聴者は、『ニュース』や『報道』という言葉によって、真実ではないことを真実だと思いがちな状態になってしまうのです。

もし、本当に真実を報道するつもりなら、事件が起こった後、数ヶ月や数年の間、様々な調査を様々な側面から行なう必要があります。

そうしなければ、真実など語れるはずがないのです。

だから、同様な事件が起きれば、同様なコメントを繰り返すだけで、何の深まりも見せません。

報道番組の情報は、その程度の情報だということを、我々視聴者がしっかりと認識しておかなければ、彼らに洗脳されてしまいます。
(既に、『考える』という部分を乗っ取られ気味なのかも知れません・・・)


理念を語る前に、真実を語って下さい。

真実を語れないのなら、事実だけを伝えて下さい。

そうすれば、我々視聴者が、ちゃんと考えますから・・・。

そんなことを、みんなが何となくマスコミに対して思いながら過ごしていれば、世の中は、少しずつ良くなっていくのではないか・・・、そんな気がするのです。
(テレビだけでなく、新聞の記事も・・・)


2007年5月16日水曜日

NHKの内閣支持率アンケート結果と悩みの類似点

昨日だったと思うですが、

NHKのニュースで安倍内閣の支持率について取り上げられていました。


アンケートの設問設定の影響もあるかもしれないのですが、「指示する」と回答した人の内、その選択理由として最も多かったのが「ほかの内閣よりよさそうだから」(35%くらいだったと思います?)だったということが、ちょっと、衝撃的でした。


それは、『悩み』に陥った時の思考に非常に似ていると感じたからです。


一般的に、人は、特に心が苦しいと感じていない場合は、自分の中から自由に発想して、数多くの選択肢を創り出し、そして、その選択肢の中から、その時の自分の気持ちに一番合ったものを選び、行動することができます。


ポイントは、自分の中から選択肢を創り出すというところです。


ところが、様々な事情によって、『自由に発想したところで、それをする事ができない』と感じてしまうと、周りの人から与えられること(言い方を替え れば、周りの人から「やってもいい」と許可が出ているもの)の中から、一番マシなことを探し出し、それをやる事で我慢しようとしてしまうようになります。


ポイントは、選択肢は、周りから与えられるというところです。


一番やりたいことではなく、マシなことをやっている訳ですから、本当の気持ちとの間にギャップが生じ、それが、ストレスや心の苦しみにつながってしまうのです。


日本の社会から自由な選択肢が消えかけている。


それは、個々の人を見れば、それぞれの人が、少し悩み気味の人が多いということになるのだろうと思います。


しかし、個々の人のこととしてみるのではなく、アンケートとして集計し、それを国家の指標としてしまった時点で、個人の悩みということでは済まなくなります。


その悩みの雰囲気が、国家を左右するところに反映してしまうからです。


今の日本社会を『人』に例えると、やっぱり、「悩んでいる」と表現できるのかもしれません。



【余談ですが・・・】

これは、統計をとるということによって陥る状況です。


統計をとらなければ、それを裏付けとして、ことを進めることも出来ないからです。

統計は、その設問によって、その結果をどうにでも変えるられるところがあります。
(調査項目に、調査者の意図が隠されている事もは多いです。)

しかし、統計は科学的なように感じさせるところがあり、非常に危うい手法だということを認識し、統計をとる人は、もっと慎重にやった方が良いような気がします。


それを報道するのは、もっともっと、もっともっと、もっともっと、慎重になる必要があると思うのです。

2007年5月15日火曜日

心のコンピュータ処理的な理解

『心のコンピュータ処理的な理解 』ということに取り組むことにしました。

詳細は随時更新していく予定ですが、
今はまだ、『処理フロー《第0版》』(PDF)だけです。

でも、そのフローを見ながら、何か面白いことになりそうな予感がしています。

心の苦しみや悩みについて、これまでとは違う側面から眺める事ができるかもしれません。

お暇なときにでも、覗いてやって下さい。

完成すれば、もしかしたら、感情を持つロボットができるかも!?(なんちゃって)

2007年5月5日土曜日

見て学んでしまう・・・

「つらい出来事を子供たちのトラウマにしてしまわないように」という事で、
私が意識している事は、つらいことがあって泣いている時は、
とりあえず、その理由や内容の良し悪しは無視して、
その気持ちに目を向けるようにしています。

そして、具体的に行動していることは、
「抱き上げて、泣き止むまで、気長に抱きしめてあげる」
ということなのです。

【参考:そうかそうかムーブメント
 
 
現在、長男は4歳、次男は2歳なのですが、
2人並べると、どうしても長男が色々な事の責任を負わされることが多いようで、
母親の矛先は、主に、長男に向かいがちです。

とりあえず、私にできることは、抱きしめることしかないので、
その都度、抱きしめるようにしています。
(自宅で仕事をしているので、結構な確率で、それをしてあげることは出来ていると思います。)


それが功を奏してか、長男は、今のところはいじけることなく、
母親を怯えるような事もなく、懲りずに同じようなことで母親にて怒られるということは 繰り返しながら過ごしています。
(母親にとっては、「何度同じことを言っても、言うことを聞かない!」ということになってしまうのですが・・・)

ただ、最近、気になることは、次男のことです。


どうも、怒られるかも知れないと感じることは、
やる前に自制してしまっている
つまり、見て学んでしまっているようなのです。

 
「この見て学ぶ」ということは、
将来、無意識の我慢につながってしまう恐れがあります。

 
【参考:メルマガバックナンバー『読むカウンセリング:兄弟姉妹が仲が悪くなる事情』
http://www.pureheart-counseling.com/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC...
 
 
自然に学んでしまうのですから、
それを止めるのはとても困難なような気がしました。

なぜ、学んでしまうのだろう・・・?

しばらく考えました。
 
 
そして、長男が怒られているのを見て、
恐怖を感じ、その恐怖が自分に降りかからないようにするために、
「同じようなことをしない方が良い」と考えるのだろうと考えました。
 
 
で、その怖さに対して働きかけるしかないのだろうという結論に至りました。

つまり、具体的には、長男が怒られている場面では、次男を抱きしめるということです。

その意味は、独りぼっちでその怖さに向きあわさせないようにするためです。

そして、長男が怒られ終わったら、今度は、長男を抱きしめる
 
 
 
そんなことをしながら、
しばらく、様子を見てみようと思う今日この頃です。

2007年5月3日木曜日

スクールカウンセラーに関する私見

現在の私のスクールカウンセラーに対して、なんとなく、次のような感じではないかと認識しています。
  • 定期的に全生徒の話を聞き、悩みを一人きりで抱えないようにフォローしている
  • 心に悩みを抱えた生徒の相談相手として関わっている
  • 問題のある生徒を更生させようとしている

 
しかし、実際のところ、スクールカウンセラーが、どのような組織によって配備され、具体的にどのような方針によって活動しているのかということを、私はあまり知りません。

ですから、これから書くことは、既に行われていることかもしれませんし、或いは、全くの的外れな内容かもしれません。お読み下さるときはご注意下さい。

まず、「生徒の心に関する専門家は誰か?」ということなのですが、これは、やっぱり、学校の先生であると感じています。

普段の子供の様子を見て、そして、接することができるのは先生しかいないからです。
 
 
子供たちのことを考えても、
  • スクールカウンセラーという特殊な人に、特殊な時だけ話をする
というよりは、
  • いつでも話したいときに話して受けとめてもらえる
という方が、きっと、日々の生活の安心感につながるのではないかと思います。
 
 
ですから、もし、子供たちの心をスクールカウンセラーだけでフォローしようとする考え方があるとしたら、それには無理があるような気がするのです。
 
 
 
話は少し変わって、知人の先生から聞いた話なのですが、その小学校では、先輩の先生が後輩の先生(新卒の先生でさえも)をフォローすることはほとんどなく、放置されている状態だということでした。

その小学校が特殊なのかもしれませんが、もし、それが一般的な先生の置かれている状況だとしたら、結構、厳しい環境だなって感じました。
 
 
子供たちと接する場合、曖昧な表現ですが『子供を愛する』ということは、とても大切な方向性ではあると思います。

先生になるような人は、きっと、誰から言われなくても、もともとそんな気持ちの強い人だろうと想像しています。
 
 
しかし、「ただ他人を愛そうとすること」には、限界があります。

恐らく、「ただ愛する」ということだけを目指してしまったのでは、ほとんどの場合、何らかの我慢を強いられる事になり、我慢が蓄積された結果、『感情の爆発』や『うつ的な気持ち』に到達してしまいそうな気がします。

更に、社会からも、先生というだけで、『ただ愛する』ということを求められがちな雰囲気は、そんな気持ちに追い討ちを掛けるのかもしれません。
 
 
私の心に関する結論の一つに『自分が愛されているということを実感できなければ、人を愛することなどできない』というのがあります。

つまり、愛する前に、愛される方が先だということです。愛されるような自分に変わらなければならないということではありません。
今の自分のままで愛されていると実感することが先だと言っています。

学校の先生は「自分が誰かから愛されている」という実感が持てるような状況にあるのだろうか?
そのことがとても気になります。
 
 
で、スクールカウンセラーがカウンセリングする対象を、生徒ではなく、先生にしてみたらどうかと思うのです。

すると、
  • 先生が自分の気持ちをスクールカウンセラーに受けとめてもらうことで『愛されている』に近い感覚を実感する事ができる
  • そして、愛されていると感じるから、子供たちを自然に愛することができるようになる
のではないかと思うのです。
 
  • 皆さんは、学校の先生のこと、愛していますか?
  • 皆さん自身は、誰かから、愛されていると感じていますか?

2007年4月30日月曜日

暗示は伝染する!?

【重要】
※最後の【追記】は、必ず読んで下さい。そうしないと、暗示が伝染してしまいます!?

ここ数年の経験によって、最近、私の概念が覆りつつあることがありました(というか、覆ってしまっていました。)

外を歩いている時に、とても大きなプードルを見かけることがチョコチョコっとあり、「へぇ~、プードルって小さい犬だと思っていたけど、あんな大きなプードルもいるんだ!」と、感心していました。

「お金持ちは、かっこいい大型犬を散歩させている」なんてイメージも何となくあったので、「お金持ちが飼うプードルも、普通とはちょっと違うんだなぁ~」なんて納得感があったのです。

ところが、次の記事を読んでビックリしました。

Tokyo Fuku-blog: 日本でプードルと偽ってヒツジが大量に売られている

プードルは、独特の形に毛が刈り込まれているという印象が強い犬です。

ですから、私は、

「プードルという犬の種類」をプードルと認識する

というよりは、

「プードル独特の毛の刈り込み」をプードルと認識する

ということに陥ってしまっていたのです。


ただ、1度、そのような状況に遭遇しただけでは、「あれは、プードル?」という疑問は残ったままになっただろう思います。

でも、それを異なる場所で複数回見かけたということにより、疑問は無くなり、それを事実として受けとめてしまったようなのです。

恐らく、その異常に大きなプードルを飼っている人は、それがヒツジだと思っている人はいないのではないかと思います。

この『日本でプードルと偽ってヒツジが大量に売られている』という記事を読んでいない人は、それをプードルと今でも信じているのだろうと思います。

「信じている」、それを別の言い方をすると、それらの飼い主は、『それがプードルだという暗示にかかっている』ということができます。

そして、暗示にかかった人からの刺激を受けることによって、それに興味など無かった人まで、その暗示を受け入れてしまいがちになるということが、私が体験したことの説明になるのだろうと思います。

さて、普段の生活においても、恐らく、このような状態は色々と起こっているのではないかと思います。

プードルの例のように極端なことなら気付くこともあるかもしれませんが、地味なことについてはそれが暗示だということに気付くのはかなり難しいだろうと思います。

ですから、意識されない流れの中で広がっている暗示は、結構沢山あるのかもしれないと思えるのです。


ここでは詳しくは書きませんが、『悩みを解決する』ということについても、悩みを解決できなくするような様々な暗示が広まって受け入れられてしまっ ている現状があるように感じるのです。

(「心理百科事典」で、順次説明していこうと取り組んでおりますので、興味がある方は見てみて下さい。(まだ、作り はじめですが・・・)

マスコミから流される情報には(それを報道と称しているものであっても)、そのように暗示を広める働きがあるということは、我々はきちんと理解しておく必要があると思います。


【追記:重要 2007.04.30】
この記事を投稿してから、ちょっと、気になったので調べてみたら、やっぱり大きいプードルがいるということも分かりました。

ワールドドッグ図鑑◇スタンダードプードル

何が真実で、何が思い込みか。

今回のことでは、私は、『あれは思い込みだった』と思い込みかけていたということのようです。

事件は本当にあったのかもしれませんが、その事件によって、正しい認識まで否定するところでした。

かなり勉強になりました。

いやいや、お恥ずかしい・・・(苦笑)

【追追記 2007.05.02】

どうも、この件は、事件すら起こっていなかった可能性があるらしい・・・(やれやれ)

J-CAST ニュース : 「プードルと偽って羊販売」 「珍報道」世界を駆け巡る

2007年4月27日金曜日

教育再生会議:親向けに「親学」提言

教育再生会議:親向けに「親学」提言 母乳、芸術鑑賞など-行政:MSN毎日インタラクティブというニュースが紹介されていた。
 ◇「親学」提言のポイント
(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める
国家として真剣に議論した結果がこれかと思うと、国の行く末が心配になる・・・。

議論だけで終わらせてくれることを心から願う。

2007年2月8日木曜日

本が出版されました


以前、こころ相談.com向けに書いていたコラムが書籍化されました。
こころ相談室へようこそ―11人のカウンセラーが語る、自分の心と上手につきあうヒント
こころ相談.comに登録されているカウンセリングルームのカウンセラー11人によるコラム集です。

心に関する色々な考えに触れる事ができると思います。

あなたの悩みの解決のヒントが見つかるかも!?

よろしくお願いします。

2007年1月29日月曜日

マスコミ報道の理解にクレーム対応のノウハウを活かす

マスコミのニュース報道やワイドショーの内容を理解する上で注意した方が良いと感じていることを少し書きます。

言葉の使い方については、以前、「修飾語はあなたのもの」というところで説明しました。

今回は、インタビュー映像の危うさについて説明したいと思います。

マスコミは、事件などが起こると、その直後に、被害者などにインタビューをして、その映像を放送することで、その様子や言葉を視聴者に伝えることが多いと思います。

また、それを見たコメンテーター・キャスターは、その言葉を文字通りに受け取り、あれこれとコメントをして、その結果、視聴者たちは、それを真実として受けとめてしまうところがあるように感じています。


さて、ここでクレーム対応について少し書きます。

クレームを言われる方は、たとえ冷静な口調であったとしても、本当のところは怒りの状態であることが多いと思います。

ですから、「どう責任をとるつもりだ!」などといった言葉については、「こう責任をとります」などと直ぐに解決へ向けての提案をするのではなく、まず、「言われていることはもっともで、そのような気持ちになられるのは良く分かります」というように、しばらくの間、十分に気持ちを受けとめる事が大切だ といわれています。

そして、そんなやり取りをしばらく続けていると、次第に怒りは落ち着いて、お互いにとっての解決の為の話し合いができる状態になっていくことが多いからです。

ここで何が書きたかったかというと、心が落ち着くまでは、感情を表現する為に、様々な言葉が用いられているということです。

つまり、言葉自体の意味よりも、それによって表現される感情に意味がある段階があるということです。


話を戻します。

報道でも、同じことが言えるのではないかと思うのです。

事件直後の被害者は、問題点や非難・批判を口にしますが、その言葉をそのまま聞き入れるのではなく、その言葉を使いながら表現している『怒り、悲しみ、つらさ、苦しみ...etc』などの気持ちを、まず、受けとめるように意識した方が良いと思います。

映像の中の人たちは、怒っているのです。

悲しいのです。

悲しみに耐えているのです。

つらいのです。

苦しいのです。

・・・・

それが、初期のインタビュー映像が伝えることの出来る唯一の真実ではないかと思います。

私たちがその気持ちの受けとめを疎かにして、その時に発せられた言葉の意味にばかりに意識を向けてしまうと、後になって被害者の方の気持ちが落ち着 いて、本当の解決に向けての話をしようとしたときに、感情を吐き出す為に使った言葉が社会的に独り歩きしてしまっていて、それ以外の事は話せない状態に追 い詰めてしまうかもしれないと思うのです。


2007年1月17日水曜日

メルマガ編集後記【No.0010】

約半年振りに、メルマガ「読むカウンセリング」を発行しました。

直接のきっかけは、メルマガを発行しているmag2の方から、「半年以上メルマガを発行しないと廃刊する」という警告のメールを受け取ったことです。

長期に渡ってメルマガの発行をサボってしまったのは、前回のメルマガ【No.0009】の内容は、『答えそのもの』と思えてしまっ て、それ以上何を書いて良いのか分からなくなってしまったからなのですが、最近、ニュースで報道されている兄妹の悲しい事件や、カウンセリングで兄弟に悪 い印象を持つ人があまりにも多いことから、今回のメルマガの内容を書いてみようと思い、半年振りにメルマガを発行するに至りました。


メルマガ『読むカウンセリング【No.0010】 兄弟姉妹が仲が悪くなる事情』では、一例として、第一子・第二子とに区別して説明させて頂きましたが、現実はそんなことで単純に切り分けできるものではないと思います。

もしかしたら、次の切り口で説明した方が分かりやすかったかもしれないと思ったりもしています。

■親の矛先が誰に向いていたか?

(「誰にどんな矛先を向けていたか?」という表現の方が正確かもしれませんが・・・)

矛先を向けられた子供は、反発しながら我慢しているような状態に陥り、矛先を向けられていない子供は、その様子から学び取り、行動する前に我慢する状態に陥るということなのだろうと思います。

親の矛先はどこに向くのでしょうか?


・同性の子供と異性の子供

・男女の違い

・年上・年下の違い

・親の好み

など、他にもさまざまな要因があると思います。


それらに

・親の心配・不安

・親の期待

・親自身のの失敗体験・成功体験

・親の世界観・価値観

などが絡み合って、一人の子供に矛先が向く場合もあれば、切り口の違いによって、あっちこっちに矛先が向く場合もあるだろうと思います。


しかし、様々な矛先が様々な人を巡っていても、『矛先を向けられた時は反発しながら我慢し、矛先を向けられていない時はそれを見て学び取り我慢する』、つまり、『結局、我慢する』というところに納まらざるを得ないのだろうという気がしています。

そこに、メルマガで書きましたが、親の愛情という評価が偏ると、兄弟姉妹の仲がこじれ出すのだろうと思います。

ここで重要な事は、子供が感じ取る親の愛情の兄弟に対する割り合いによるということです。

親の愛情が実際に偏っていたのかもしれません。

また、親は同じように接しているつもりでも、子供が受け取る感じが違っていたのかもしれません。


そんな状況で、同じように愛されるべき兄弟姉妹のみんなが、

■それぞれが、同じような事を、それぞれの方法で我慢してきた

ということを理解し合うことが出来れば、きっと、これまでとは違う関係になれるのではないかと想像するのです。


【子育て中の親御さんにアドバイスするとしたら・・・】

兄弟姉妹の仲を改善しようと思うときは、兄弟姉妹を仲良くさせるという考えは脇に置いても良いのかもしれません。

そして、親の「子供たちに同じように接している」という主観も脇に置いておいて、子供の主観を確認し、「子供が足りない」と言えば、どうして欲しいのかを子供に確認し、そのことで補ってあげることを意識して実践すると良いのかもしれません。


【余談ですが・・・】

子供にとっては、兄弟みんな同じ子供という認識だと思うのですが、親は、「みんな同じようにただの子供だ」ということを忘れて、第一子に対して、第 二子以降の子供たちよりも色々な事ができるはず、いわゆる『お兄ちゃんだからちゃんとしなさい』・『お姉ちゃんだから我慢しなさい』というような感覚に 陥ってしまいやすいような気がします。

たかだか数才の違いなのに、お兄ちゃんやお姉ちゃんという役割を、幼い頃から一生背負わされるのは理不尽なことのような気がして、わが家では、『お兄ちゃん』という言葉は使わないということを試しています。