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2005年1月31日月曜日

諦めていること

「諦めると決断したこと」、或いは、「知らず知らずに諦めてしまっていたこと」は、その決断が自分の中での大前提のようなものになってしまって、あなたを不自由にしているかもしれません。


でも、その諦めは、過去に「諦めざるを得ない状況」に置かれていたから、そのように決断するしかなかったのかもしれません。


また、あまりよく分かっていなかった幼かった頃の自分がした決断だったのかもしれません。


「諦めてしまっていたこと」をもう一度、思い出してみませんか?

あなたの本当の願いが、見えてくるかもしれません。


そして、あなたが今置かれている状況は、過去の状況とは違うということに気が付くかもしれません。


あの時は幼かったけど、今は成長して、あの時出来なかったことが出来るようになっている自分に気付くかもしれません。


「諦めてしまっていたこと」をもう一度、思い出してみませんか?

2005年1月13日木曜日

正しく悩む為に

自分の心の流れが、少しだけでも良い方向へ動き出すことが、とても大切な事だったように思います。

そして、その緩やかな流れは、川の上流に降った雨が海にたどり着くように、その緩やかな変化の積み重ねを意識することができなくても、きっと、「本当の自分」に導いてくれると思います。


その為に、私にとって一番大切だったことは、「自分の感情を受け入れる」ということだったように思います。


自分の感情を「嫌な感情」だと感じてしまうと、そんな嫌な感情を抱く自分を責めてしまったり、人によっては、その感情を映し出すきっかけになった他人を責めてしまったりしてしまいがちな気がします。


私が苦しんでいた時は、「自分は、どうしてこう感じてしまうのだろう・・・」とか「自分は、何で他の人と同じように感じられないのだろう・・・」と思ってしまうことが多くありました。


でも、今から思えば、原因を探して解決しようとしているつもりでしたが、実は、「こう感じてしまう自分はダメだ!」「人と同じように感じない自分はダメだ!」と、ただ自分を責めているに過ぎなかったと思います。


自分にとって好ましくないと感じる感情を、否定するのではなく、肯定し、そう感じる自分の心の背景を理解しようとすることが、大切だと思います。


もう少し具体的に言うと、「~~~を~~~と思っていたら、そう感じてしまっても仕方ないよねぇ~」と、自分にねぎらいの言葉をかけてあげることだと思います。


うまい例ではありませんが、「数学のテストで100点をとらなければ生る価値が無い」と思い込んでいたら、40点なんて点をとってしまったら、とてもショックを受けてしまうだろうと思います。


また、40点以上の点数がとれなくなってしまったら、死にたくなってしまうかもしれません。


ただ、実際の生活の中では、この部分は本人にとっては、とても当たり前の事になってしまっていることが多いので、自分ひとりの力で気付くことは、もしかしたら、難しいことかもしれません。


その為には、他の人に相談することは、とても大切なことだろうと思います。


そして、カウンセラーによるカウンセリングを受けることも、きっと、その助けになると思います。


「どうして、100点を取らなければ生きる価値は無いの?」


その理由は、父親に褒めてもらいたかったからなのかもしれません。

もしそうだとしたら、100点をとっても、父親に褒めてもらえなかったら、その人の本当に欲しいものは手に入らないのです。


「自分が本当に手に入れたいものは何なのか?」


悩みの中に迷い込んで抜け出せないように感じた時、先を急ぐことは少しの間お休みにして自分が無意識に否定してしまっている自分の感情をもう一度見つめなおし、その感情を大切に扱おうとすることは、それに気付くヒントを与えてくれるかもしれません。


そして、自分の感情を肯定し始めた時、私の悩みの80%は解決していたような気がします。


【おわり】

2005年1月9日日曜日

暗示について

『暗示』というと、「特殊な状況で、あることを信じてしまう」というようなニュアンスを感じる人は多いかもしれません。

普通の感覚で生活している中では、それは確かにそうなのですが、実は、私たちの日常生活は『暗示』によって成り立っていると言うことが出来るような気がします。

『禅』とも通じるところがあるのですが、たった今生まれた人にとって、この世の中の全ては、特に意味はありません。

そして、そんな中で行動していくうちに色々な物と出合い、出合ったときの感情感覚と共に記憶されていきます。

【例】 りんご = 甘くておいしかった、サクっとした、赤かった、丸かった・・・

物に限らず、出来事についても、同じようなことが考えられると思います。

【例】 お正月 = 学校が休みだった、お年玉がもらえてうれしかった・・・

そのようにして、だんだんと色々なものに意味づけをすることで、この世の中を理解し、それがその人の世界観となっていきます。

もちろん、現代においては、『知識』として、感情を伴わずに記憶されるものもかなり多くあると思います。

でも、経験による感情や感覚を伴った記憶の方が、生々しく、その人の世界観に対しての影響は大きいだろうと想像できると思います。

人それぞれ経験することは、全く違うということは、容易に理解できると思います。

例えば、「初めて食べたリンゴが腐っていてお腹を壊して酷い目にあった」とか、「お正月も両親の仕事が休みではなかく、お年玉ももらえず、独りぼっ ちでの留守番は寂しかった」というような経験をしていたとしたら、リンゴやお正月に対する印象は、また違ったものになると思います。

そして、「リンゴ」とか「お正月」という言葉を聞くと、過去の経験に基づいて、未来を類推し、嬉しい予感や、嫌な予感を感じるようになります。

この一連のことが、実は、『暗示』なのです。嬉しい予感がするときは、その人の行動を妨げることはなく、また、その人も、幸せな感覚の中を過ごす事が出来ると思います。

逆に、嫌な予感がするときは、その予感によって、その人の行動は妨げられてしまうことがあります。

『過去にたまたま腐ったリンゴを食べてしまって、「リンゴを見るのもイヤだ」と思いこんでしまった人』を例に説明したいと思います。(その人は、他の人がリンゴをおいしそうに食べるのを見て、「僕も、みんなと同じように、腐ったリンゴを食べても大丈夫な体に生まれてきたかったなぁ・・・」と思っているとします。)

●もし、世界には腐ったリンゴしかないのであれば、
その人の嫌な予感は、その人の生命を守るためには必要な予感だと考えられます。また、その予感は、人類共通の予感であることも、想像できます。

●もし、その人の周りだけ、腐ったリンゴがあるのであれば、
腐ったリンゴのないところに行けば、リンゴをおいしく食べる準備の第1段階は完了します。

●もし、その人の周りは、おいしいリンゴしかないのに、リンゴが腐っているような感じがして、リンゴが食べられないのであれば、過去の経験の記憶から形作られる予感が、その人の自由を奪ってしまっていると言うことが出来ると思います。そして、その予感の修正が出来れば準備の第2段階は完了し、「みんなと同じように、リンゴをおいしく食べたい」という気持ちを実現することが出来るだろうと思います。

何かを感じて頂ければと思います。

2005年1月5日水曜日

禅(座禅)を始めたきっかけ

人の悩みは、自分の中のイメージ現実とのギャップにあるのだろうと思います。そして、「今の自分はダメだけど、この目標を達成したら、ダメな自分ではなくなるような気がする」と、今の自分を否定して、ダメな理由を探したり、目標を探してしまうのかもしれません。

このような『悩み』、或いは『悩みという概念』に、真っ向から立ち向かうのが、禅(座禅)の『かくのごとく』という感覚なのだろうと思います。

悩みの中で、目標を設定して頑張っても、今の自分を否定していては、例え、過去に設定した目標を達成したとしても、結局、その時(すなわち、今)の自分を否定して、過去にそうしたように、『幸せでない理由』『幸せになるための目標』を、再び探し始めてしまうのかもしれません。

何の理由が無くても、今の自分を肯定するためには、どうしたらいいのだろう?」
そんなことを考えていた時、直感的に「座禅だ!」と思ったのが、私が禅(座禅)を始めたきっかけです。また、この辺りのことは、私がカウンセラーとしてカウンセリングを行っていく上で、避けて通ることが出来ないことのように思っています。

このカテゴリーでは、私が禅(座禅)を通して経験したり、感じたり、考えたりしたことを、お伝えできればと思っています。

※過去の私の座禅体験記は、カウンセリングルーム「ピュアハートカウンセリング」の『カウンセラーのエッセイ』の中でご紹介していますので、のぞいてみて下さい。

2005年1月4日火曜日

境界性人格障害(ボーダーライン)という言葉について

「境界性人格障害(ボーダーライン)」という言葉は、最近では、当たり前のように使われるようになってしまっているような気がします。

それは、あたかも、そのような病気?心の欠陥が存在するような印象を与えてしまいます。

でも、それは、その時の状態を表す言葉に過ぎないと思っています。

以前、私が「どん底の状態」だった時、DSM-Ⅳに基づく心理テストを受けたことがあります。

そして、その結果は、境界性人格障害(ボーダーライン)としか思えないようなもので、「自分の心は出来損ないなんだ・・・」と、酷く落胆したことを覚えています。

でも、「どん底の状態」から抜け出した今、その時の自分の認識は誤りだったと思っています。

「境界性人格障害(ボーダーライン)」という言葉は、病名欠陥の名称ではなく、状態のことを指している」と理解するようになりました。

もっと分かりやすく表現すると、健康な心を持っている人が、そういう状態に陥ってしまっている」と言うことが出来ると思っているということです。

そして、別の呼び方をするとしたら、「良くないコミュニケーションの記憶が多い人」ということなのだろうと思っています。

その詳細(原因や抜け出す流れなど)については、このブログ全体(将来書いていくことも含めて)を通して、お伝えしようと思っています。

長く落ち込んでいたり、心が苦しかったりする時、「境界性人格障害(ボーダーライン)」関係の書籍を読むと、恐らく、大半の人は、自分は「境界性人格障害(ボーダーライン)」だと感じてしまうかもしれないと思います。

でも、『たまたまそこにあった「境界性人格障害(ボーダーライン)」という言葉に、たどり着いたことによって、「打ちのめされて、自分らしく生きることを諦める」必要は決してない』ということを強く信じて欲しいと思っています。

そして、このブログやカウンセリングを通して、『あなたらしく生きる』お手伝いが出来ることを願っています。

(たぶん、そんな障害は、この世の中には存在しないのだろうと思います。)