新しい記事は新ブログに投稿しています。



2005年3月29日火曜日

ありがとうの大切さ

他の人から、

・助けてもらったり、

・自分にとってありがたいことをしてもらったり

したとき、心の中で、どのように感じますか?


それに対する反応として、大きく2つのパターンがあるように思います。


①心から嬉しく感じる

②恐縮したような感じになってしまう


例えば、何かをしてもらったりしたとき、「すみません」と言う人は、多いような気がしています。

これは、②のパターンに当たるように思います。


一概には言えないのですが、「照れるような感じ」も、もしかしたら、②のパターンになるかも知れません。


この2つのパターンには、とても重要な違いがあると考えています。


「恐縮する」とは、自分の中に負の感情を起こす事によって、正の感情を打ち消す事のように思います。


つまり、「嬉しい」といった感情を打ち消して、相手のしてくれたことを、自分にとって良くも悪くも無いことにしてしまいます。


悪く言えば、相手の好意を無にすることにつながってしまうのではないかと考えています。


本人にそんなつもりは無くても、意識せずに使った言葉によって、そのような心理状態に誘導されることもあるように思います。


別の説明をすると、


『自分が申し訳ない気分になることによって、自分がそれをしてもらうことは、特別のことではなく普通のこと(当たり前のこと)と思い込もうとしている』


と言えるかもしれないと思います。


ただ、それは、傲慢や悪意によってそうしていると言う意味ではなく、どちらかというと、「自分にとって嬉しいことをしてもらい慣れしていない」ということからきているように思っています。


慣れていないから、「自分にとって嬉しいこと」は例外として処理しようとする気持ちが、無意識の内に働いてしまうような気がします。


何かをしてあげたとき、相手の記憶に残っていないことが多かったり、或いは、相手から何もしてもらっていないと感じているとき、相手や自分の気持ちの中に、このような心理が働いていることがあるかもしれないと思います。


ですから、①のパターンの言葉、つまり、「ありがとう」という言葉を使うことに慣れていくことは、自分の嬉しい気持ちを大切にしたり、相手のしてくれたことを大切にすることにつながるのではないかと思います。


まず、「ありがとう」と言うこと、それは、ほんの小さなことかもしれませんが、世界観が変わるきっかけになるかもしれないと思います。


そして、「ありがとう」という言葉と一つになれたとき、色々な幸せが見えてくるのかもしれないと思います。

2005年3月10日木曜日

修飾語はあなたのもの

テレビを見ていて思うのですが、

事実を客観的に人々に伝える役割である報道番組・ニュースなどでさえ、

あまりにも安易に修飾語を使っているということに、

日本の将来に不安を感じています。



それは、経済や何かの発展のことではなく、将来の日本人の心に関する心配です。


例えば、事故現場からのレポートなどをする際、レポーターが次のような言葉を使っているのをテレビで目にすることは多いのではないでしょうか・・・。


目を覆いたくなるような状況です。


何となく聴いていると、聞き流してしまいそうな言葉なのですが、これは、とても主観的な言葉で、また、あまりにも抽象的な文章だと思います。


誰が、どういう価値基準だから、何に対して、そのように感じたのか?に関する表現が抜けています。


主語は、レポーターです。


レポーターが何を見たのか?

何を聞いたのか?

何を感じたのか?


火が苦手なレポーターだったのかもしれません。


ごみが散らかっていることを受け入れられないレポーターだったのかもしれません。

少しの血を見ても気絶するようなレポーターなのかもしれません。

他にも色々とあると思いますが省略します。

(駅伝やマラソンの中継をテレビで見ているときなども、同じような言葉によく出くわすように感じます。)


そして、それらが抜けた抽象的な報道を聞かされた人は、それぞれの人の価値観と照らし合わせて、修飾語から逆に事実を連想し、事故の状況を理解するのが、かなり当たり前になってきてしまっているようなところはあるように思います。


彼ら報道関係者が無意識に修飾語を用いることは、そこに何の意図が無いとしても、私たちが主体的に修飾語を用いることを排除する力となって働いていると思います。


修飾語というのは、『それぞれの人の価値観と照らし合わせて、物事を評価する』とても大切な言葉だと思っています。


その修飾語を自ら選択する機会を奪われていくことは、我々がそれぞれに大切にしている価値観を奪い取られていくことにつながってしまうのではないかと思います。


そして、修飾語が一般化してしまった時、それは、誰の価値観も含まない、味気ない意味の無い言葉になり下がってしまうような気がします。


こんな時は、普通は、こう言うだろう


「挨拶のできる良い子だったのに」というありふれてしまった言葉も、一般化してしまった修飾語の一つかもしれません。


一般化してしまった修飾語をそのまま受け入れることは、本当の自分を置き去りにしてしまうことなのかもしれません。


また、世の中に広まってしまった意味の無い言葉と同じように思わない自分を責めたりすることにつながるのかもしれません。


修飾語を意識せずにむやみに使うことは、みんなが本当の気持ちを話せなくなってしまうことにまでつながってしまうかもしれないと思います。


報道などに限らず、普段の生活の中でも、事実を客観的に把握し、それにふさわしい修飾語を自分自身で選び出すという普通のことを、もっと大切にして欲しいと私は願っています。

2005年3月8日火曜日

子供を叱ってるの?それとも、怒ってるの??

小さな子供と長く過ごしていると、イライラすることもたくさんあると思います。

そんな中で、子供に対して、何かを強く要求している時、

「これは『しつけ』なの?、それとも、子供に自分の『イライラ』をぶつけているの?」

ということが分からなくなってしまっている自分に気付きました。


そんな時、最近、心がけていることを少し書きます。

「そんなこと、当たり前だよ!」なんて言われるかもしれないのですが・・・・。

子供を叱った後で、

1.「どうして怒られたかわかる?」と子供に問いかけます。
まだ小さいので全然説明にはなっていないのですが、何らかの文章を言い切ったと感じられるところまでゆっくり待って聴いてあげます。

次に

2.怒った理由を、小さな子供でもわかるように、5W1Hなど文章を省略したりせずに、丁寧に、客観的に話してあげます。
もし、自分が感情的に怒っていたとしたら、この説明のつじつまが合わなくなってしまうように感じています。また、説明が最後まで済んでいないのに、説明を途中で止めたいと感じるときも、要注意な気がします。

3.感情に任せていたことに気付いたら謝る
自分が、理不尽な要求や独りよがりの考えによる要求を押し付けていたことに途中で気付いたら、謝るようにしています。

今は、こんなやり方が良いのかもしれないと思っています。

(子育てって、常に、試行錯誤ですね(苦笑))


【補足:独りよがりな考え】

『独りよがりな考え』とは、自分の気持ちを、客観的なこととして相手に押し付けようと表現したものだということが出来るように思います。


《例》ソースをじゅうたんにこぼした子供を怒ること

それがいつもいつものことだったら、ついつい、「じゅうたんにソースをこぼしたらダメって言ってるでしょ!」と怒ってしまいそうに思うのですが、どうですか?

でも、ソースをじゅうたんにこぼすことは、客観的には悪いことではありません。


親としては、

●じゅうたんが汚れるのがイヤ

●後片付けをすることがわずらわしい

などということなのだろうと思います。


だから、正しく伝えるとしたら、

「じゅうたんが汚れるのは、お母さんが嫌だから、そうならないように協力して欲しいの」

と、親がなって欲しくない状態にならないように、協力の依頼をするのが本当の形のような気がします。


※ただ、『小さい子供には言葉がうまく伝わらない』という問題は残るのですが・・・(苦笑)

親の根気も大事ですが、別の場所での親のストレス発散もとても大切な事だと感じています。


2005年3月7日月曜日

禅(座禅)の価値

座禅の価値について、少し書いてみようと思います。

何かの参考になればと思います。


私たち人間は、『いつも、何かを求めて、何かをしている』ようなところがあるように思います。

だから、目的や目標が無い状態がとても苦手です


空いた時間が出来れば、その時間をどのように過ごそうかと考え、『自分にとって価値があることをした』と思えないと、無駄に過ごしてしまったような感じがしてしまうところがあります。


また、この感覚は、人生についても同じようなところがあると思います。


これまでの自分の人生を振り返って、「価値があった」とか「価値が無かった」とか、考えてしまいがちです。


でも、その基準になる『価値』って、そもそも何なのでしょうか?


人生の終わりは、何の前ぶれもなく突然にやってきます。


だから、『何かを成し遂げる』ということに人生の価値を求めていると、恐らく、『やり残した』という思いを持ったまま人生を終えてしまうでしょう。


仮に、何かを成し遂げたとしても、何かを成し遂げた時点で、その先を生きていくことを正当化するための目標や目的を、新しく見つけ出さなければならない状況に陥ってしまうような気がします。


文章が飛んでしまうかもしれませんが、一般的に『価値』がありそうに思いがちなことは、実は、家族や社会など、色々な人間関係の中での評価に関わることがほとんどのような気がします。


そのような価値にとらわれて過ごすことは、他人を思うことに気をとられて、本当の自分を見つめることがとても疎かになってしまっている状態ということが出来ると思います。


『自分にとっての自分の価値』に気付くことが出来れば、もう、生きる為に理由を探す必要なくなるのです。


そして、意味不明な文章かもしれませんが、『自分を大いに生きられる』ようになるのだと思います。


人は、何かをしているとき、俗にいう『価値』に縛られているので、なかなか本当の自分を見つめることが出来ません。


でも、最初に述べたように、人は何もしないでいるということがとても苦手な動物です。


禅(座禅)の価値は、この矛盾を解決できるところにあるのです。


つまり、「何もしないこと」を「座禅をしている」と思うことで、「何かをしている」とうまく錯覚させてくれるのです。


そして、座禅をしている自分が、座禅から離れて、何もしていない自分になれたとき、『座禅と一つになれた』ということになるのだろうと思います。


座禅をするということは、そういうことだと思います。