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2007年5月24日木曜日

報道番組の見方

私が未成年の頃、親から「そんなテレビばかり見てたらあほになる!」なんてことを言われることがありました。

その対象となる番組は、大体、バラエティー番組と分類されるものだったのですが、最近、「あほになる番組」は、どうもバラエティではないような気がしてきました。


今回は、そんなお話をしてみたいと思います。


では、どんな番組が「あほになる番組」??


それは、自分でも意外だったのですが、報道番組なのです。


バラエティ番組は、視聴者はバラエティ番組と思って見るので、その内容をそのまま受け入れる事は割り合い少ないところがあります。(捏造事件などはありましたが・・・)

しかし、報道番組は、彼らは、「ジャーナリズム」とか言って、あたかも真実を報道していると錯覚しているようなので、我々への影響がちょっと変わってきます。

報道番組の枠組み自体に問題があるのですが、皆さんは、その異常性に気付いていますか?
大方の報道は次のような流れになっています。

  1. 事件が起こる
  2. できる限り早く、事件について報道する
  3. そんな報道の中で、連れて来られた専門家が、憶測を話させられる
  4. キャスターと称する人が、表面的な事象を捉え、それに関して社会に受け入れられると思うコメントを話す。
  5. 事件の種類によっては数日騒ぎ立てる
  6. おわり

この『おわり』というのが非常に問題なのです。


事件が起きた直後や、事件が起こっているときに、その真実など分かるはずがないと思うのです。

ですから、そこで『おわり』ということは、報道には真実はないということになります。

しかし、彼らは、表面的なことからの憶測していることを、どうも真実を追求していると勘違いしているような気がします。

また、無意識に、いい加減な修飾語を付与してしまい、社会がそれをそのように評価していると思わせてしまうところもあります
(※ 修飾語はあなたのものを参照)。

詳しくは覚えていないのですが、先日も、「精神科に通院歴のある少年が・・・・」なんて報道の仕方をしていました。

それを無防備に聞くと、それが結論のように聞こえてしまいます。

しかし、真実は、別のところに確かに存在するのです。

次に、報道を見る側についてです。

『ニュース』や『報道』という言葉から、そこでは、事実や真実が語られているような印象を受けてしまい、報道された事を、真実として受け入れてしまいがちになってしまいます。


しかし、繰り返しになりますが、事件が起こった直後になんか、その真実が分かるはずがないのです。


つまり、我々、視聴者は、『ニュース』や『報道』という言葉によって、真実ではないことを真実だと思いがちな状態になってしまうのです。

もし、本当に真実を報道するつもりなら、事件が起こった後、数ヶ月や数年の間、様々な調査を様々な側面から行なう必要があります。

そうしなければ、真実など語れるはずがないのです。

だから、同様な事件が起きれば、同様なコメントを繰り返すだけで、何の深まりも見せません。

報道番組の情報は、その程度の情報だということを、我々視聴者がしっかりと認識しておかなければ、彼らに洗脳されてしまいます。
(既に、『考える』という部分を乗っ取られ気味なのかも知れません・・・)


理念を語る前に、真実を語って下さい。

真実を語れないのなら、事実だけを伝えて下さい。

そうすれば、我々視聴者が、ちゃんと考えますから・・・。

そんなことを、みんなが何となくマスコミに対して思いながら過ごしていれば、世の中は、少しずつ良くなっていくのではないか・・・、そんな気がするのです。
(テレビだけでなく、新聞の記事も・・・)


2007年5月16日水曜日

NHKの内閣支持率アンケート結果と悩みの類似点

昨日だったと思うですが、

NHKのニュースで安倍内閣の支持率について取り上げられていました。


アンケートの設問設定の影響もあるかもしれないのですが、「指示する」と回答した人の内、その選択理由として最も多かったのが「ほかの内閣よりよさそうだから」(35%くらいだったと思います?)だったということが、ちょっと、衝撃的でした。


それは、『悩み』に陥った時の思考に非常に似ていると感じたからです。


一般的に、人は、特に心が苦しいと感じていない場合は、自分の中から自由に発想して、数多くの選択肢を創り出し、そして、その選択肢の中から、その時の自分の気持ちに一番合ったものを選び、行動することができます。


ポイントは、自分の中から選択肢を創り出すというところです。


ところが、様々な事情によって、『自由に発想したところで、それをする事ができない』と感じてしまうと、周りの人から与えられること(言い方を替え れば、周りの人から「やってもいい」と許可が出ているもの)の中から、一番マシなことを探し出し、それをやる事で我慢しようとしてしまうようになります。


ポイントは、選択肢は、周りから与えられるというところです。


一番やりたいことではなく、マシなことをやっている訳ですから、本当の気持ちとの間にギャップが生じ、それが、ストレスや心の苦しみにつながってしまうのです。


日本の社会から自由な選択肢が消えかけている。


それは、個々の人を見れば、それぞれの人が、少し悩み気味の人が多いということになるのだろうと思います。


しかし、個々の人のこととしてみるのではなく、アンケートとして集計し、それを国家の指標としてしまった時点で、個人の悩みということでは済まなくなります。


その悩みの雰囲気が、国家を左右するところに反映してしまうからです。


今の日本社会を『人』に例えると、やっぱり、「悩んでいる」と表現できるのかもしれません。



【余談ですが・・・】

これは、統計をとるということによって陥る状況です。


統計をとらなければ、それを裏付けとして、ことを進めることも出来ないからです。

統計は、その設問によって、その結果をどうにでも変えるられるところがあります。
(調査項目に、調査者の意図が隠されている事もは多いです。)

しかし、統計は科学的なように感じさせるところがあり、非常に危うい手法だということを認識し、統計をとる人は、もっと慎重にやった方が良いような気がします。


それを報道するのは、もっともっと、もっともっと、もっともっと、慎重になる必要があると思うのです。

2007年5月15日火曜日

心のコンピュータ処理的な理解

『心のコンピュータ処理的な理解 』ということに取り組むことにしました。

詳細は随時更新していく予定ですが、
今はまだ、『処理フロー《第0版》』(PDF)だけです。

でも、そのフローを見ながら、何か面白いことになりそうな予感がしています。

心の苦しみや悩みについて、これまでとは違う側面から眺める事ができるかもしれません。

お暇なときにでも、覗いてやって下さい。

完成すれば、もしかしたら、感情を持つロボットができるかも!?(なんちゃって)

2007年5月5日土曜日

見て学んでしまう・・・

「つらい出来事を子供たちのトラウマにしてしまわないように」という事で、
私が意識している事は、つらいことがあって泣いている時は、
とりあえず、その理由や内容の良し悪しは無視して、
その気持ちに目を向けるようにしています。

そして、具体的に行動していることは、
「抱き上げて、泣き止むまで、気長に抱きしめてあげる」
ということなのです。

【参考:そうかそうかムーブメント
 
 
現在、長男は4歳、次男は2歳なのですが、
2人並べると、どうしても長男が色々な事の責任を負わされることが多いようで、
母親の矛先は、主に、長男に向かいがちです。

とりあえず、私にできることは、抱きしめることしかないので、
その都度、抱きしめるようにしています。
(自宅で仕事をしているので、結構な確率で、それをしてあげることは出来ていると思います。)


それが功を奏してか、長男は、今のところはいじけることなく、
母親を怯えるような事もなく、懲りずに同じようなことで母親にて怒られるということは 繰り返しながら過ごしています。
(母親にとっては、「何度同じことを言っても、言うことを聞かない!」ということになってしまうのですが・・・)

ただ、最近、気になることは、次男のことです。


どうも、怒られるかも知れないと感じることは、
やる前に自制してしまっている
つまり、見て学んでしまっているようなのです。

 
「この見て学ぶ」ということは、
将来、無意識の我慢につながってしまう恐れがあります。

 
【参考:メルマガバックナンバー『読むカウンセリング:兄弟姉妹が仲が悪くなる事情』
http://www.pureheart-counseling.com/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC...
 
 
自然に学んでしまうのですから、
それを止めるのはとても困難なような気がしました。

なぜ、学んでしまうのだろう・・・?

しばらく考えました。
 
 
そして、長男が怒られているのを見て、
恐怖を感じ、その恐怖が自分に降りかからないようにするために、
「同じようなことをしない方が良い」と考えるのだろうと考えました。
 
 
で、その怖さに対して働きかけるしかないのだろうという結論に至りました。

つまり、具体的には、長男が怒られている場面では、次男を抱きしめるということです。

その意味は、独りぼっちでその怖さに向きあわさせないようにするためです。

そして、長男が怒られ終わったら、今度は、長男を抱きしめる
 
 
 
そんなことをしながら、
しばらく、様子を見てみようと思う今日この頃です。

2007年5月3日木曜日

スクールカウンセラーに関する私見

現在の私のスクールカウンセラーに対して、なんとなく、次のような感じではないかと認識しています。
  • 定期的に全生徒の話を聞き、悩みを一人きりで抱えないようにフォローしている
  • 心に悩みを抱えた生徒の相談相手として関わっている
  • 問題のある生徒を更生させようとしている

 
しかし、実際のところ、スクールカウンセラーが、どのような組織によって配備され、具体的にどのような方針によって活動しているのかということを、私はあまり知りません。

ですから、これから書くことは、既に行われていることかもしれませんし、或いは、全くの的外れな内容かもしれません。お読み下さるときはご注意下さい。

まず、「生徒の心に関する専門家は誰か?」ということなのですが、これは、やっぱり、学校の先生であると感じています。

普段の子供の様子を見て、そして、接することができるのは先生しかいないからです。
 
 
子供たちのことを考えても、
  • スクールカウンセラーという特殊な人に、特殊な時だけ話をする
というよりは、
  • いつでも話したいときに話して受けとめてもらえる
という方が、きっと、日々の生活の安心感につながるのではないかと思います。
 
 
ですから、もし、子供たちの心をスクールカウンセラーだけでフォローしようとする考え方があるとしたら、それには無理があるような気がするのです。
 
 
 
話は少し変わって、知人の先生から聞いた話なのですが、その小学校では、先輩の先生が後輩の先生(新卒の先生でさえも)をフォローすることはほとんどなく、放置されている状態だということでした。

その小学校が特殊なのかもしれませんが、もし、それが一般的な先生の置かれている状況だとしたら、結構、厳しい環境だなって感じました。
 
 
子供たちと接する場合、曖昧な表現ですが『子供を愛する』ということは、とても大切な方向性ではあると思います。

先生になるような人は、きっと、誰から言われなくても、もともとそんな気持ちの強い人だろうと想像しています。
 
 
しかし、「ただ他人を愛そうとすること」には、限界があります。

恐らく、「ただ愛する」ということだけを目指してしまったのでは、ほとんどの場合、何らかの我慢を強いられる事になり、我慢が蓄積された結果、『感情の爆発』や『うつ的な気持ち』に到達してしまいそうな気がします。

更に、社会からも、先生というだけで、『ただ愛する』ということを求められがちな雰囲気は、そんな気持ちに追い討ちを掛けるのかもしれません。
 
 
私の心に関する結論の一つに『自分が愛されているということを実感できなければ、人を愛することなどできない』というのがあります。

つまり、愛する前に、愛される方が先だということです。愛されるような自分に変わらなければならないということではありません。
今の自分のままで愛されていると実感することが先だと言っています。

学校の先生は「自分が誰かから愛されている」という実感が持てるような状況にあるのだろうか?
そのことがとても気になります。
 
 
で、スクールカウンセラーがカウンセリングする対象を、生徒ではなく、先生にしてみたらどうかと思うのです。

すると、
  • 先生が自分の気持ちをスクールカウンセラーに受けとめてもらうことで『愛されている』に近い感覚を実感する事ができる
  • そして、愛されていると感じるから、子供たちを自然に愛することができるようになる
のではないかと思うのです。
 
  • 皆さんは、学校の先生のこと、愛していますか?
  • 皆さん自身は、誰かから、愛されていると感じていますか?