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2009年10月30日金曜日

子供に『友達』という言葉をあまり刷り込まない方が良いと思うのです…

ここしばらく、自分の子供を通して、幼稚園や小学校の教育の一端を感じているのですが、その中で、「ちょっと、それはどうかな?」と思っていることが一つあるので、それを書きます。

それは、『友達』という言葉を子供に刷り込み過ぎるのではないか? ということです。
  • 友達たくさん作ろうね!
  • 友達たくさん出来ると良いね!
  • 友達たくさん出来た?
  • 友達いるの?
  • 友達いないの?
  • 友達できた?
  • ○○ちゃんとは、友達なの?
  • 誰と友達かな?
  • ○○ちゃんと、友達になってはいけません。
  • ○○ちゃんの友達は誰?
このようなことを、小さい頃にあまり刷り込み過ぎると、ボクシングでボディーブローが試合後半に効いてくるように、青年期以降の人間関係に大きく影響してしまうと考えています。

存在しないものが実体化した亡霊

例えば、次の問題を考えてみて下さい。

【問題】
  1. あなたが友達と思っている人が、あなたの友達であることを証明しなさい。
  2. あなたが友達関係であると思っているAさんとBさんの関係において、AさんがBさんの友達であることを証明しなさい。また、BさんがAさんの友達であることを証明しなさい。
実は、これらは決して証明できないことなのです。

理由を簡単に説明すると、次のような感じです。

※この部分は、旨く説明出来ていないかもしれませんので、サラッと読み飛ばして頂ければと思います…。
友達というものに実態はありません。作り出されたただの概念に過ぎません。
例えば、私が『ことかぶろ』という概念を作り出したとします。そして、「あなたは『ことかぶろ』ですか?」と問うた時、その本当の意味は、私にしか分かりません。
友達という言葉も同じで、その本当の意味は、その言葉を使うそれぞれの人の中にある、つまりその人の主観を表わす言葉なのですが、多くの人はそのことに気付いていません。(自分にとっての意味は、後述する『友達という言葉に棲みついた亡霊から離れる』をお読みになればご理解頂けると思います。最終的には、「自分が友達だと思えば友達だ」ということになります。)

今の日本では、概念である友達という言葉が、あまりにも一般に浸透してしまったために、日本人のほとんどが、友達があたかも存在しているかのような感覚に陥っていますが、これは、実態のない概念が浸透し過ぎたことによって実体化してしまった亡霊でしかないのです。

このような人の主観や言葉に宿った亡霊の存在を、客観的に証明することなど出来るはずはないのです。

言葉に棲みつく亡霊が現実を覆い隠す

さて、ここで、心が苦しくなった時のことを想像してみて下さい。

心が苦しくなってしまったとき、次のようなことを考えることがあると思います。
  • 自分には友達はいるだろうか?
  • 自分には友達が少ない… 
  • 自分には、悩みを打ち明けられる友達がいない…

しかし、これらはいかにも哲学的な問いかけであり、哲学者でもなければ答えを見つけることの出来ない問いかけです。

それは、前の説明をお読み頂ければ何となく理解して頂けると思います。


そして、哲学的なことを真剣に考えるのは苦しいことです。


ですから、心が苦しいときに、友達について云々するような哲学的な思考に陥ってしまうと、もともとの心の苦しさに加えて、哲学的な命題に取り組む思考の苦しさが加わってしまいます。

しかも、その哲学的な問いには答えは出てこないのです。


つまり、自分の気持ちを打ち明けたかっただけなのに、友達ということを真剣に考えてしまうとそこで停滞が発生してしまい、その先にある本来の目的「打ち明ける」には進めなくなってしまうのです。


『心が苦しいときに、自動的にこのような哲学的な悩みを付加してしてしまう心のシステム』を作ってしまうのが子供の頃の友達という言葉の過度な刷り込みだと考えています。

友達という言葉に棲みついた亡霊から離れる


心が苦しくて誰かに悩みを打ち明けたいときに必要なのは友達という亡霊ではなく、自分が望んでいる特徴を持つです。


例えば、次のような感じです。
  • 話を聴いてくれる人
  • 話しやすいと感じる人
  • 叱咤激励しない人
  • 相槌が心地良い人
  • 大袈裟にリアクションをしてくれる人
  • 静かに聴いてくれる人
  • 活発な人
  • 物静かな人
  • 自分の類似する経験を話したがらない人
  • 自分の『悩み解決法』を押し付けたがらない人
  • 「強くなれ」、「ポジティブシンキングで頑張れ」などといい加減な励ましをしない人
  • 話を聴いてもらうと、なぜか、ほっとする人
  • 秘密を守ってくれる人
  • (知り合いには話しにくいので)日常生活で直接的な関わりの無い人
  • 男の人/女の人
  • 自分より若い人/自分と同世代の人/自分よりも年配の人
  • 自分の求める専門知識を持った人/逆に、その専門知識を持っていない人…
  • 隣に○○さん
まだまだ、考え付くと思います。


どうです?

友達という言葉の呪縛から解放されるだけで、相談相手となり得る人は無限に広がり始めそうじゃありませんか?!

子供の逆洗脳

ブラジルだったでしょうか(スペイン語圏かな…)、アミーゴ(友達)って言葉を、「知り合い(目と目が合ったら知り合い)は、みんな友達」というように使っていると聞いたことがあるのですが、日本語の友達もそのような位置づけに変えていけば良いと思います。


我が家では、うちの子供たちが使う友達という言葉に亡霊を宿さないように、子供たちが使う言葉に亡霊を感じた時は、次のような言葉で言い直し、逆洗脳で対処しようとしています。


もう少し説明すると、誰にでも友達という言葉を付けて呼ぶようにしています。
  • よく話す友達
  • よく遊ぶ友達
  • たまに遊ぶ友達
  • まだ遊んだことのない友達
  • 今度遊んでみたい友達
  • あまり遊びたくない友達
  • あまり話したことのない友達
  • まだ話したことのない友達
  • 話しにくい友達
  • 話したくない友達
  • 聞きたくない話をする友達
  • 一緒に帰る友達
  • 放課後、家に遊びに行ったりすることのある友達
  • 顔を見たことあるけど、話したことはない友達
  • 意地悪な友達
これもいくらでも浮かぶと思います。


子供を逆洗脳する時は、例えば、友達とケンカして「もう、○○君は友達じゃない」と言ったら、「そうか、○○君は絶対に遊びたくない友達なんだね」って感じです。


こうするとみんなが友達ですから、友達かどうかには意識が向かずに、その人との関係性・状態に意識が向きやすくなると考えています。


この対処の結果、私の子供たちと周りの子供たちが使う友達という言葉のニュアンスが、日本人とブラジル人ほどのギャップが生じても良いと思っています。

そうすれば、将来、悩みを打ち明けるとき、悩みを話すために特別な友達を探す必要はなくなると考えるからです。
(悩みを相談する前段階での、無駄な停滞は発生しなくなります。)


ということは、哲学的な余計な苦しさを負う必要もなくなります。

その時の悩みを打ち明けるにふさわしい特徴を持っている人を効率的に探し出し、悩みを早い時期に相談できるようになると考えています。

つまり、悩みを一人で抱え込む期間が短くなるのです。



また、そこまで期待できるのかどうかは分かりませんが、ついでに書くと…

このように認識すると、ある人物全体を漠然と否定したり、逆に、ある人物全体を漠然と肯定したりし難くなるのではないかと思います。

例えば、ちょっと嫌なところがあるからといって、その人との関係を全く断ってしまう必要性は無くなります。

その嫌なところは、その人の一つの側面であると認識し、それ以外の側面を肯定しながら、うまく付き合っていくことにつながるのではないかと想像しています。

このように、友達という言葉に宿る亡霊を追い払うだけで、悩みを一人で抱え込んでしまう人は、きっと減っていくだろうと考えています。

補足

友達という人間関係を気付くための障壁への配慮の他に、子供に「つらい気持ちを話しにくい」という感覚を植えつけないための工夫も、合わせて施す必要があると考えています。

そして、それは、そうかそうかムーブメントで排除出来ると考えています。

余談

余談ですが、いじめという言葉も、実際には存在しないただの亡霊だと考えることが出来ます。
そこにあるのは、例えば、
  • 嫌なことをしてくる子供
  • 嫌なことに耐える時間
  • そのあとのつらい気持ちを孤独に耐える時間
  • 一人で過ごす孤独な時間
  • やりたいことをさせてもらえないつらさ
  • 好きでもないことをさせられるつらさ
  • 優しくしてくれる人がいないという事実
  • 人より劣ると感じるつらさ
  • 馬鹿にされるつらさ
  • 出来なかった悔しさ
  • 苦しい気持ちなのに、誰も助けてくれない時間
  • 「助けて!」と言いたいけど言えなくて困っている時間
  • 「助けて!」って言ったのに、助けてもらえなかったつらさ
  • 「やめて!」って言ってもやめてもらえなかったときのつらさ 
  • 嫌な出来事の後のつらさを、ひとり抱えて過ごす苦しい時間
  • 自分が悪いと自分を責めて苦しい時間
  • 自分が弱いと自分を責めて苦しい時間
  • 学校に行きたくないのに行かなければならないつらさ
  • つらい気持ちのまま学校まで歩いていく時間
  • 学校から帰っても、家の人につらい気持ちを聞いてもらえない事情
  • その気持ちを部屋で孤独に耐えるつらい時間
  • 夜寝るとき、明日になったらまた学校に行かなければならないと思うつらさ
といった細かな事実、もしくはそれらの積み上げです。

それをいじめという言葉で一括りにしてしまうから、その本質が分からずに、「いじめがあった」「いじめがなかった」といった不毛の議論に陥ってしまうのだと考えています。

教育の現場とは違い、現場を管轄する上位の組織では、そんな個別の事情に意識が向き難い分、いじめという亡霊が強く見えてしまうのだろうと思います。

しかし、一人ひとりを取り巻く個別の事情を見ずに、いじめという亡霊に対処しようとしても、何の解決にもならないと思います。



その他にも、亡霊が棲みついている言葉は沢山あると思います。

言葉が漠然と持つニュアンスに惑わされずに、本質を見誤らないようにすることが大切です。

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