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2004年12月28日火曜日

多くの人と接すること

自分に独特な「他人の言葉や行動、出来事に対する習慣的な反応」に気づき始めたら、多くの人たちと接することは、きっと、何かの助けになると思います。

私は、「他人の為に生きよう」と決意して初めたボランティア相談員になるための研修活動のおかげで、私は多くの人たち(仲間)と、密に接する機会に恵まれました。もしかしたら、「ボランティア」ということで、優しい人たちが集まっていたという面があったのかもしれません。

その頃の私は、「自分なんて価値が無い・・・」というようないじけた気持ちの真っ只中に居たので、他人と関わりたい反面、怖くて人から遠ざかりたいという複雑な心境でした。でも、ボランティア相談員を目指す人たちは、そんな私をいつも「仲間」として暖かく受け入れてくれました。

始めの頃は、「受け入れてくれている」という事実が理解できずに、何の根拠も無いのだけれど「自分はここに居てはダメなんだ」というような漠然とし た気持ちでいっぱいでした。たぶん、「受け入れてもらえること」が異常だと感じていたから、普通に戻れば、「やっぱり、受け入れてもらえない」というよう な感覚があったような気がします。

いつもなら、きっと、この漠然とした嫌な感覚に耐えられず、そこから逃げていたかもしれないのですが、「自分が生きていくための最後の決断」によって臨んでいる私には、もう後がありませんでした。そして、それは、今から思えば、私にとって、とても幸運だったことのように思えます。

誰でも、今までと違う状況に出会うと戸惑います。それは、自分にとって良いことであっても、同じような気がします。例えば、いつも怒ってばかりいる 親から、ニコニコしながら褒められると、「きっと、何か下心があるかもしれない」と思ってしまうのと似ていると思います。でも、それに慣れて、それが当た り前のことになれば、違和感無く受け入れることが出来るようになると思います。

私も、少しの期間を必要としましたが、だんだんと人の温かさを、「嬉しい」と素直に受け入れることが出来るようになっていきました。

《まとめ》
●あることに対して、不快の2つの感覚があるとき、快の感覚に目を向けることは、とても大切な事のような気がします。
不快の感覚が、根拠の無い漠然としたものならば、快の感覚を感じることに慣れるに連れて次第に薄らいでいくように思います。
自分が快を感じる場面を貪欲に求めようとすることは、その手助けをしてくれるかもしれません。
●そんな中で、多くの人と触れ合うことは、多くの価値観と触れ合うことと同じだと思います。多くの価値観に触れることは、自分を苦しめる無意識のこだわりに気づき、それから開放されることを手伝ってくれるような気がします。(ただ、本音を隠した表面的なかかわりの中では、それは難しいかもしれません・・・)

※心理カウンセリングも、その手伝いをしてくれると思います。もしかしたら、日常にそれを求めるよりも、まずカウンセリングの場にそれを求める方が、「実はとっつき易い」ということに、あなたは気づいているのかもしれないと思います。

健忘録:そのうち書いて見たいと思うタイトル
『本音を話す為に』、『「身体的練習」と「心理的練習」の目標設定の違いについて』、『漠然とした「嫌な感覚」について』

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