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2007年12月24日月曜日

罪と罰(2) 精神鑑定について

私は精神鑑定について研究している訳ではなく、また、詳しく調べたわけでもないので、ニュースなどの文脈からだけの理解になりますが思うことを少し書いてみたいと思います。


「ちゃんと調べてから書け!」という部分が大部分を占めて、見苦しい文章なのですが、もしよろしければ、読んでみて下さい。


私が『精神鑑定』と聞いて思い浮かべるのは裁判です。

裁判において、その罪に対する罪状や量刑を決める流れの中で行われるという認識しています。

とりあえず、Wikipediaぐらいは見ておこう思って覗いてみました。

その背景について知りたかったのですが、期待していたようなことはかかれていませんでした。
(今後、記載される可能性もあるのでリンクだけ貼っておきます。)


精神鑑定(Wikipedia)

精神鑑定は、『その人に、責任をとる能力があるか』ということを見極めることを目的として行われると認識しています。

また、それが用いられるのは、人の生命に関わる犯罪に限られ、軽犯罪などでは用いられることは無いように感じています。
(実際はどうか分からないのですが・・・)

そして、その結果は、次のような相容れない2極に分離されるように認識しています。
(これまた正しい理解かどうかは分からないのですが・・・)


■『責任能力がある』と判断された場合 : 『有罪』

■『責任能力がない』と判断された場合 : 『無罪』


これは、人としては受け入れ難い概念なのですが、なぜか現代社会では当たり前のこととして受け入れられてしまっています。


そして、その結果


■『責任能力がある』か『責任能力がない』か?

■『有罪』か『無罪』か?


という、何の関係性もない2つの対比を、等価な対比だと主張するような不毛な議論を、いつも経なければならないところがあります。


罪を犯したなら、それは有罪で、無罪などということはありえないと思います。


ですから、一つの案としては、

責任能力があるのなら

1.責任をとる


仮に、責任能力がないという状態が存在するとした場合には、

1.責任をとれる状態になる

2.責任をとる



という流れにする方が、今よりはマシな流れになるのだろうと思います。


この流れだと精神鑑定によって「責任能力がない」とされてしまうと、まず責任がとることができる状態になるまで、期限の決められていない状況の中で 治療?(教育?)によって責任能力を身につけなければならなくなります。
(ただ、ここには精神病院と人権に関わる歴史のようなものも影響して、現在の形に なっているのかもしれませんので、真剣に考えるなら、その辺の背景をきちんと調べなければならないような気がしています。)


そして、能力を身につけた後、ようやく責任をとることができるという流れです。

つまり、責任をとり終わるまでの期間が長期化してしまうことになります。

ですから、責任をとれる人は、今とは、逆に、自らの罪を認めて責任をとることを望むようになり、現在のような、不毛な議論に時間を割かなくても済むようになるのではないかと思うのです


似たような本質を理解しない概念としてに『計画性』というものがあります。

これは、性悪説を前提にした考え方だと思うのですが、検討してみる余地があるように思います。

これについては『罪と罰(4) 人はなぜ犯罪を犯すのか』のところで、恐らく触れることになるだろうと思います。


そして、加害者と被害者或いは被害者家族に、本当の解決が訪れるような罰を含めた責任のとり方について、考えてみたいと思います。


【おすすめの本】

時代がつくる「狂気」 精神医療と社会

精神鑑定などが、どのような歴史をたどって現在の状況に至ったのかが、分かりやすく説明されています。
  • 精神鑑定の目的は、簡単に書くと「その被告人に必要なのは、罰なのか、それとも医療なのか」というの区別をつけること。
  • その際、「医療が必要」となったとき、医療側の対応によっては、直ぐ社会復帰させてしまい、罰も医療も不十分になることがあるという問題があった。
  • それを補うために2003年に『心神喪失者医療観察法』が制定された。
ということでした。



その他、精神病に関する認識や対処などの歴史的な移り変わりも説明されています。


参考 : 医療観察制度
http://www.moj.go.jp/HOGO/hogo11.html

【2009.04.22追記】

精神に関わる法などの現状や問題点をざっくりと理解されたい方は、次の本を読まれると良いと思います。
(大学の教科書のような本なので、読むには気合が必要です。)


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