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2008年2月2日土曜日

ロボットの反乱

SFの映画(例えば、ターミネーター、マトリックス、アイ・ロボット・・・)などで、ロボット(コンピューター)が意思を持ってしまい、人間に対して反乱を起こすといったストーリーがちょくちょく作られます。


それを見ていると人間の形をしたコンピューター制御のロボットが反乱を起こすというのが、共通点としてあるようで、コンピューターの人間に対する反乱はそのような形で起こると、私は思い込んでいたところがあります。

しかし、最近、「コンピューターの人間に対する反乱は、実は既に起こっているのではないか!?」と思うようになりました。

そんな話を書いてみたいと思います。

とりあえず電製品なのですが、昔はその操作はアナログ的といいますか、比較的多くの調整を、それを使う人が自由に行うことができました。
(家電製品オンチの人には煩わしいことだったかもしれませんが・・・)


ですから、例えば、エアコンの暖房で風量を強に設定すれば、容易に強風を吹き出させることができましたし、ステレオの高音や低音の強弱を調整することも容易でした。


しかし、最近の家電製品はそうはいかないものが増えてきていると思います。


・エアコンは、強風に設定しても、エアコン(のマイコン)が、それを妥当だと認めない限りは強風を吹き出してはくれないもの

・ステレオの音質の調整も、予め用意されている「クラッシック・モード」や「POPSモード」などのモードから逸脱した設定を許してはくれないもの

そんな機器が増えてきているように思います。


自動車などもそんな感じの部分があるように思いますし、他にも、探せば色々あると思います。


これは、マイコンのプログラムの仕様の影響を受けているということになります。

その予め想定された仕様を逸脱しては利用できないのです。

調整できる機能がないのと、機能はあるけどその調整はマイコンが勝手にやってしまうというのでは、意味合いが全く異なってくるのではないかと思うのです。

そして、このようなことを『ロボットの反乱』と呼んでも良いように思うのです。

(正確に言うと、人が作ったシナリオへの束縛ということになるのかもしれませんが・・・)


話は少し変わりますが・・・・、


私の『心』に関する結論なのですが、ロボットやコンピューターが意思を持ったように見えることがあっても、それは、所詮、人が組み上げたプログラムがそう感じさせるようになるだけで、『自己』というものを決して持つことはないと思っています。

たとえ、『心』をもつロボットを作ったとしても、それは決して『自己』を持ったことにはならないのだろうと思うのです。
(『心』と『自己』の違いが、上手く説明できていないので分かり難いかもしれませんが、でも、何となく雰囲気的に分かって頂けたらなって思います。)


話を戻します。


マイコン制御が浸透しすぎると、人は、人が作ったマイコンを制御するためのプログラムに適応することに迫られます。

しかし、プログラムは、所詮、人の浅知恵で、それを作る人(或いは、作る集団)の想定以上のものは作ることは出来ません。
(想定外のことがあったとしたら、それはただのバグ(不具合・設計ミス)です。)

そんなものよりも、人が適応すべきなのは、人知を超越した大自然や自分自身ではないかと思うのです。

人間社会に生きている以上、社会に適応していくことは必要だと思いますが、せめて、機械くらいは自分の意志で自由に操作したいものです。

機器以外は、テレビゲームは人が作ったシナリオへの束縛という意味では、象徴的なものかもしれません。

ゲーム中に遊ぶ人の想定外のことが起こったとしても、所詮、作る人が想定したアイディアの一つに過ぎないのです。


結論ですが、ロボットの反乱とは、

■ ロボットが意思をもって人に逆らう事ではないのだろうと思います。

■ 一部の人の考えがプログラムに置き換えられてそれに人が操られるようになること、そして、そんな部分的なプログラムが無数に放出されて社会に蔓延してしまうことではないかと思うのです。


テレビゲームなんかしてないで、遊びたかったら外に出ましょう。

人恋しかったら、人に会いましょう。

音楽が聞きたかったら、コンサートに行きましょう。

たぶん、もう少し時間は掛かるかもしれませんが、今の状態が長く続くと、人の心は自分でコントロールできないモヤモヤが鬱積して、自然にそんな流れも生じるのだろうとは思います。

言いたいことを上手く書けた自信がありませんが、何かを感じて頂けることを願っています。


訳の分からない文章を最後まで読んで下さりありがとうございました。

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