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2005年1月9日日曜日

暗示について

『暗示』というと、「特殊な状況で、あることを信じてしまう」というようなニュアンスを感じる人は多いかもしれません。

普通の感覚で生活している中では、それは確かにそうなのですが、実は、私たちの日常生活は『暗示』によって成り立っていると言うことが出来るような気がします。

『禅』とも通じるところがあるのですが、たった今生まれた人にとって、この世の中の全ては、特に意味はありません。

そして、そんな中で行動していくうちに色々な物と出合い、出合ったときの感情感覚と共に記憶されていきます。

【例】 りんご = 甘くておいしかった、サクっとした、赤かった、丸かった・・・

物に限らず、出来事についても、同じようなことが考えられると思います。

【例】 お正月 = 学校が休みだった、お年玉がもらえてうれしかった・・・

そのようにして、だんだんと色々なものに意味づけをすることで、この世の中を理解し、それがその人の世界観となっていきます。

もちろん、現代においては、『知識』として、感情を伴わずに記憶されるものもかなり多くあると思います。

でも、経験による感情や感覚を伴った記憶の方が、生々しく、その人の世界観に対しての影響は大きいだろうと想像できると思います。

人それぞれ経験することは、全く違うということは、容易に理解できると思います。

例えば、「初めて食べたリンゴが腐っていてお腹を壊して酷い目にあった」とか、「お正月も両親の仕事が休みではなかく、お年玉ももらえず、独りぼっ ちでの留守番は寂しかった」というような経験をしていたとしたら、リンゴやお正月に対する印象は、また違ったものになると思います。

そして、「リンゴ」とか「お正月」という言葉を聞くと、過去の経験に基づいて、未来を類推し、嬉しい予感や、嫌な予感を感じるようになります。

この一連のことが、実は、『暗示』なのです。嬉しい予感がするときは、その人の行動を妨げることはなく、また、その人も、幸せな感覚の中を過ごす事が出来ると思います。

逆に、嫌な予感がするときは、その予感によって、その人の行動は妨げられてしまうことがあります。

『過去にたまたま腐ったリンゴを食べてしまって、「リンゴを見るのもイヤだ」と思いこんでしまった人』を例に説明したいと思います。(その人は、他の人がリンゴをおいしそうに食べるのを見て、「僕も、みんなと同じように、腐ったリンゴを食べても大丈夫な体に生まれてきたかったなぁ・・・」と思っているとします。)

●もし、世界には腐ったリンゴしかないのであれば、
その人の嫌な予感は、その人の生命を守るためには必要な予感だと考えられます。また、その予感は、人類共通の予感であることも、想像できます。

●もし、その人の周りだけ、腐ったリンゴがあるのであれば、
腐ったリンゴのないところに行けば、リンゴをおいしく食べる準備の第1段階は完了します。

●もし、その人の周りは、おいしいリンゴしかないのに、リンゴが腐っているような感じがして、リンゴが食べられないのであれば、過去の経験の記憶から形作られる予感が、その人の自由を奪ってしまっていると言うことが出来ると思います。そして、その予感の修正が出来れば準備の第2段階は完了し、「みんなと同じように、リンゴをおいしく食べたい」という気持ちを実現することが出来るだろうと思います。

何かを感じて頂ければと思います。

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