幸せは求めるものではなく、その真っ只中に居る時、或いは、後になって振り返ったときに思うものだろうということは、以前、どこかで書かせていただいたと思います。
そして、そう思えるように、今を如何に過ごせば良いかというと、「今の自分は、何によって一番満たされるのだろう?」ということを具体的にイメージしておくことは大切です。
満たされるものとは、そんな大げさなものではありません。
例えば、今日のお昼は、カレーライスを食べれば、一番満たされるかも知れませんし、明日は、親子丼を食べれば、一番満たされるかもしれません。
カレーを食べる時、らっきょうがあれば、もっと満たされるかもしれません。
のどが渇いたら、「水を下さい」とお願いして水を持ってきてもらったら満たされ、その水を飲んだら更に満たされるかもしれません。
そんな感じに些細な望みが、一つ一つ叶っていけば、そんな生活に対して、「満たされていない」などとは思わないだろうと思います。
もし、その日の望みが、カレーライスを食べること一つだけだったとしたら、カレー屋さんがおやすみだったら、満たされることはないだろうと思います。
その日の自分が満たされるためには、何が何でもカレー屋さんが営業している必要があります。
しかし、望みが他にあったらどうでしょう。
別にカレー屋さんの営業にこだわらなくても、他のことで満たされる可能性が出てきます。
そして、もっともっとたくさんの願いがあったらどうでしょう?
恐らく、満たされないことが、満たされることの陰に隠れて、目立たなくなっていくのだろうと思います。
ここまでの話とは別の見方になるかもしれませんが・・・
私たちは、実は、1秒1秒、色々なことを願い続けていると言ってもいいところがあります。
しかも、それは大それたことではなく、ほんのささやかな願いなのですが、そのことに気付いていない場合がとても多いのだろうと思うのです。
そんな自分の1秒1秒の願いに気づくことが出来たら、自分をたくさんの願いで包み込むことができ、そのことが自分の気持ちを満たしていくことにつながるのだろうと思います。
例えば、食堂で「しょうゆを使いたい」と望んだとします。
「しょうゆをとって下さい」と、たまたま右隣に座っていた人に頼みます。
その人は、無視してしょうゆをとってくれませんでした。
特に何も感じなかったら、自分が立ち上がって、しょうゆをとってきて、しょうゆを使うことが出来れば、満たされると思います。
もし、しょうゆをとってもらえなくて悲しい気持ちになっていたとしたら、その時点で、一番望んでいることは、しょうゆをとってもらうことではなくなっているのだろうと思います。
しょうゆにこだわって、怒鳴ってその人にしょうゆをとらせたところで、そのときの一番の望みではないのですから、それでは満たされないだろうと思います。
では、そのとき、自分を満たすための一番の望みは何なのでしょうか?
望みは1秒1秒変わるのです。
大きな目標を立ててそれを実現することで満たされようと考える人は多いかもしれません。
しかし、自分を満たすためには大きな目標は要りません。
大きな目標は、自分の人生をおもしろくするために立てるものだろうと思います。
そして、それが実現しようがすまいが、それに取り組み始めたその時ですら、心を満たすことはできるのだろうと思うのです。
何かを感じていただければと思います。
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