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2005年3月10日木曜日

修飾語はあなたのもの

テレビを見ていて思うのですが、

事実を客観的に人々に伝える役割である報道番組・ニュースなどでさえ、

あまりにも安易に修飾語を使っているということに、

日本の将来に不安を感じています。



それは、経済や何かの発展のことではなく、将来の日本人の心に関する心配です。


例えば、事故現場からのレポートなどをする際、レポーターが次のような言葉を使っているのをテレビで目にすることは多いのではないでしょうか・・・。


目を覆いたくなるような状況です。


何となく聴いていると、聞き流してしまいそうな言葉なのですが、これは、とても主観的な言葉で、また、あまりにも抽象的な文章だと思います。


誰が、どういう価値基準だから、何に対して、そのように感じたのか?に関する表現が抜けています。


主語は、レポーターです。


レポーターが何を見たのか?

何を聞いたのか?

何を感じたのか?


火が苦手なレポーターだったのかもしれません。


ごみが散らかっていることを受け入れられないレポーターだったのかもしれません。

少しの血を見ても気絶するようなレポーターなのかもしれません。

他にも色々とあると思いますが省略します。

(駅伝やマラソンの中継をテレビで見ているときなども、同じような言葉によく出くわすように感じます。)


そして、それらが抜けた抽象的な報道を聞かされた人は、それぞれの人の価値観と照らし合わせて、修飾語から逆に事実を連想し、事故の状況を理解するのが、かなり当たり前になってきてしまっているようなところはあるように思います。


彼ら報道関係者が無意識に修飾語を用いることは、そこに何の意図が無いとしても、私たちが主体的に修飾語を用いることを排除する力となって働いていると思います。


修飾語というのは、『それぞれの人の価値観と照らし合わせて、物事を評価する』とても大切な言葉だと思っています。


その修飾語を自ら選択する機会を奪われていくことは、我々がそれぞれに大切にしている価値観を奪い取られていくことにつながってしまうのではないかと思います。


そして、修飾語が一般化してしまった時、それは、誰の価値観も含まない、味気ない意味の無い言葉になり下がってしまうような気がします。


こんな時は、普通は、こう言うだろう


「挨拶のできる良い子だったのに」というありふれてしまった言葉も、一般化してしまった修飾語の一つかもしれません。


一般化してしまった修飾語をそのまま受け入れることは、本当の自分を置き去りにしてしまうことなのかもしれません。


また、世の中に広まってしまった意味の無い言葉と同じように思わない自分を責めたりすることにつながるのかもしれません。


修飾語を意識せずにむやみに使うことは、みんなが本当の気持ちを話せなくなってしまうことにまでつながってしまうかもしれないと思います。


報道などに限らず、普段の生活の中でも、事実を客観的に把握し、それにふさわしい修飾語を自分自身で選び出すという普通のことを、もっと大切にして欲しいと私は願っています。

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