ニュースの報道などで、その子を知る人たちの口から『きちんと挨拶をする子だったのに・・・』というコメントがなされることがとても多いと感じています。
これは、昔から、事件が起こるたびに繰り返されてきたコメントです。
このことについて、少し考えてみたいと思います。
【後記】
書いているうちに、少し大げさになってしまった感があります。^_^;
挨拶のことだけで、子供たちの状態の全てをいうことは出来ません。
しかし、この文章が、子供たちの心を考えるきっかけになればと思います。
これは、私の勝手な想像なのですが、
始めの頃は、恐らく、『きちんと挨拶する』ということは、明るい印象を与える事が多いため、その印象と事件とのギャップを表した言葉だったのだろうと思います。
しかし、未成年が事件を起こす度に、この言葉を聞かされていると、
■『きちんと挨拶する』と『犯罪を起こさない』ということは、結びつかない
ということに、みなさんは薄々は気付いているのではないかと思います。
しかし、それでも、事件が起こるたびに、
今でも、マスコミは、同様のコメントの報道が繰り返されています。
これは、マスコミの報道を繰り返し聞かされているうちに、みんなが次のような状態に陥ってしまったのではないかと考える事も出来ます。
・本当に、『きちんと挨拶する子は犯罪を起こさない』と認識してしまった
しかし、そう考えると現実と認識が乖離してしまいます。
だから、どちらかというと、
・そのようなインタビューでは、とりあえず、そのように答えるもの
という感じに、特に自分の気持ちの無いところで答えている、
つまり、建て前しか話していないと考えた方が、私には理解できるような感じがしています。
そん な言葉なのに、マスコミは、それを本音として取り上げ、
そして議論を持ちかけているような気がします。
(また、別の見方として、マスコミが、人々に、心に もない言葉を言わせているといえる側面もあるかもしれません。)
これらのことから、それを本音として議論したところで何も解明されないのは、
当然のことと理解できるような気がしています。
(事態は、より深刻化しているような感じさえします。)
■『きちんと挨拶する』と『犯罪を起こさない』ということは、結びつかない
この現実を受けとめて、そのようなコメントはもうしない、
そのようなコメントはもう報道しないということが、
まず、必要な気がします。
で、ようやく、本題に入ります。
■ きちんと挨拶できる
■ 自然に挨拶できる
この違いを感じることが大切だと思っています。
『きちんと』というところは、
しつけや教育で何とでもなるところです。
そして、『きちんと挨拶する』には、
『人はきちんと挨拶するもの』という決まりごとに、その子は縛られている雰囲気があり、
そして、それは、その子ががその他の決まりごとにも縛られてしまっていることを窺わせているような気がします。
自分の気持ちを大切にするよりも、
それらの決まりごとを守らなければならない世界の中で生きているかもしれないということです。
『自然に』とは、
というような感じで、本人の気持ちと一致した雰囲気の中で行われる感じです。
- 元気な時は元気に挨拶をし、
- 弱っている時は力なく挨拶し、
- 挨拶したくない時は挨拶しない
詳しい説明は省きますが、
これは、人間に対して親近感や信頼感を感じていなければできない事だろうと思います。
いつもいつも、きちんと元気良く挨拶するなんて、とても不自然なことなのです。
- 親が「きちんと元気良く挨拶しなさい」としつけるから、落ち込んでいる時も無理をして元気に挨拶をしなければならず、
- 近所の人が「あの子は挨拶ができる/出来ない」と評価する雰囲気を作るから、落ち込んでいる時も無理をして元気に挨拶をしなければならない
そんな雰囲気の中では、子供たちは「落ち込んではいけない」という気持ちにさせられてしまうのではないかと思います。
そして、落ち込む時には 一人っきりになるしか道が無くなり、一人ぼっちで耐え、自分自身を責め、そして、犯罪を犯したり、自殺をしたりするような状態にまで追い込んでしまうので はないかと思います。
また、このように身に付けた『一人で悩みを抱えてしまう雰囲気』は、
社会に出た後でも、いつまでも、心の爆弾として、
その人を苦しめるようになる恐れさえ あるのかもしれないと思っています。
毎年3万人を上回る自殺者がでるという現実も、
そんな事が影響しているのかもしれないと感じたりもします・・・。
今の時代は、子供たちをそんな視点で見守ってあげることが、
- この子は無理をしているのではないのだろうか?
- この子は無理をしていたのではないのだろうか?
一番必要なのではないかと感じています。
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