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2009年3月31日火曜日

報道の中立性

asahi.com(朝日新聞社)に投稿されている記事から刺激を受けて今回の投稿をすることにした。

具体的な記事を示すと、記者以外に対する支障があるとまずいので、それは伏せさせて頂き、例え話として指摘したい。


ある日、あるお母さんは、上の子供に「お買い物に行ってきて」と頼んだ。

それに対して、上の子供は、「今日は友達と遊ぶから無理」って答え、遊びに行ってしまった。

それを見ていた下の子供じゃ、「良いよ、行ってきてあげるよ」と、手伝ってくれた。

このことを、近所のお母さん友達に愚痴った。

「下の子は良い子なのに、どうして上の子は、こんな子供になってしまったんだろう!

それを見ていた新聞記者は記事を書いた。

【タイトル:長男であるにもかかわらず、お母さんのお願いを断る事件が発生。】
■記事内容:
お母さんは毎日子供の為に尽くしていたにも関わらず、長男は、友達と約束しているということを理由に母の懇願を振り切って遊びに行ってしまった。
なお、それを見ていた下の子供が、代わりにお買い物に行き事なきを得た。
近隣の住人は、「明るく挨拶ができる子だったのに・・・」と驚きを隠せないでいる。

長男の血液型は、××型。身長は170センチ。体重は65キロ。

これも、書き方を変えると、次のようになる。

【タイトル:次男が、お母さんの買い物を手伝う】
記事内容:
次男は、お母さんの願いを受けて、お買い物を手伝った。
尚、この時、長男は、やむを得ない事情があり、お買い物を手伝うことが出来なかったらしい。

書き方によって、随分印象が変る。

そして、これでは、記事としては、ちょっと成り立たない。

だから、前者のような書き方をするのかもしれない。

また、もとの記事が出来上がる過程を見ていた、別の記者が書いた。


【タイトル:お母さんが記者と結託して騒ぐ】
記事内容:
ある母親と記者が結託して騒いで、長男を責めている。
きっかけは、長男が母親の依頼を断ったことで、母親が気分を損ねたことが原因だ。
長男が断るときに正直に話した「友達と遊びにいく約束をしている」という理由が気に障ったようだ。
長男には、長男の理由がある。
それを尊重しようとしない記事を、偏った情報と認識できずに流した記者の責任は重い。
長男の心の傷が心配だ。
そして、母親の依頼を断ったときに、そんな仕打ちをされるといったことを目の当たりにしてしまった次男の心の傷も計り知れない。
また、この記事によって、日本中の子供たちが、
本当の気持ちを言う自由を、
そして、自分の望みを大切にする自由を
奪われ、自己犠牲ばかりを強いられることにならないことを祈る。

同じことでも、様々な見方があるということだ。

記者のある意味悪意のある記事を真に受けないようにしないと、

日本はますます、建前だけが前面に出た鬱々とした国になってしまいそうな気がしてならない。


報道の中立性。

それは、現代においては報道する側に期待できないと感じている。

報道を見て聞いて読む側が、その中立性を、掘り起こしていかなければ、特定の価値観に縛られた偏見に洗脳されるだけで、真実に近づくことは出来ないのだろうと思う。


2009年3月26日木曜日

罪と罰(5) 人はなぜ罪を犯すのか?

色々と考えたのですが、人を理解するときには、性善説を前提にしても良いのかなと思っています。

これは、カウンセリングを通して皆さんと触れ合う中で、至った結論です。

「性善なのにどうして罪を犯してしまう人がいるの?」

その辺を、図を用いながらご説明したいと思います。



人の心を左右する力

① 境界に追い詰める力

心が苦しくなっても、その苦しさを楽にすることが出来れば、人は穏やかで楽な生活を送ることが出来ます。

一般的には、社会の常識の中で「それは心の苦しみにつながるだろう」と受け入れられている事象を、人の心を苦しみへと追い詰める力と認識することが多いと思います。

例えば、人から嫌なことをされるとか、不幸な出来事が起こるなどといったことです。

しかし、そこに他人の悪意が働いていなかった場合は、確かに苦しいことではあるかもしれませんが、苦しみのどん底へと追い詰められる必然性はないと考えています。

ところが、苦しさを楽に出来ずにいると、その苦しさは慢性的な苦しさとなってしまいます。

そして、この慢性的な心の苦しさが、①境界に追い詰める力として働くようになるのです。

悪意が働いていれば、それは「苦しみに追い詰めようとしている」ということなので、追い詰められても仕方ない部分があります。

しかし、『心を回復する機能』を活用すれば、それでも、追い詰められる確率は、随分低くなるのではないかと考えています。

② 戻す力

「② 戻す力」は、『心を回復する機能』を活用したときに働きます。

具体的には、苦しい気持ちを誰かに話したり、誰かに見守られながら泣くことによって、心の苦しさは解消し、楽な状態に戻ることができます。

この力が上手く働いているときは、楽で穏やかな気持ちに戻ることができるので、解決や諦めに執着することにはつながりません。

③ 善であり続けようとする力

心の苦しさを解決できずに、解決策を模索する中でも、人は、本来持っている 『 より良く生きたい 』 という方向性によって、その解決策を、『善』と分類される方法の中に見出そうとします。

また、道を踏み外そうとするくらいに追い詰められたときには、倫理や道徳によって、『善』であり続けようとします。

それでも、一線を越えてしまいそうになった時に、最後の力として働くのが『 恐怖 』です。

例えば、次のようなものが挙げられます。
  • 善人でなくなってしまうという恐怖
  • 死への恐怖
  • 刑法によるところの『罪人』になってしまうという恐怖

それらが、善であろうとする人の、最後の砦として力を貸してくれます。

最後にたどり着くのは『悪』ではなく『執着』

根本的な心の苦しさを解決できない解決策は、エスカレートする

心の苦しさは、『心を回復する機能』を活用しなければ、他にどんなことをしても解消できないと言っても過言ではないと考えています。

それ以外の何をやっても、心の苦しさの解決にはつながらないのですが、それでも視野狭窄になって、これまでの方法にこだわり続けると、それをエスカレートさせざるを得なくなります。

例えば、人に対する仕返しは、エスカレートし易いところがあります。

嫌がらせをしたときは、ちょっと、スッキリしたような気持ちになるだろうと思います。

しかし、心に抱えた慢性的な苦しさは、相変わらず、そのままになって残っています。

ですから、時間が経つと、また、その苦しさに直面しなければならなくなります。

そして、「もっと、酷いことをすれば、きっとスッキリするに違いない!」という思考と行動が繰り返されることによって、その行動がエスカレートしていくのです。

ネットの掲示板に犯罪予告を書き込んで逮捕される人が続出していますが、恐らく、彼らは、ギリギリのところで、心の苦しさと戦ってもがいているのだろうと感じています。

その後、苦しさを誰かに話して楽になることが出来ていれば良いのですが、ただ、罰を与えられただけなら、行動をエスカレートさせはしないかと心配になります。

原理的には、依存症的行動と似ているところがあると思います。



関連ページ
心理百科事典: 依存症
http://www.pureheart-counseling.com/%E5%BF%83%E7%90%86%E7%99%BE%E7%A7%91...

原因や解決策が見当たらなくなる

人は、心が苦しいとき、楽な気持ちになりたいと思うのは当然のことです。

ですから、それを解決する為には、どうしても、その原因や解決策が必要になります。

しかし、『心を回復する機能』を活用すること以外のところで、色々悩んだり原因や解決策を考えても、根本的な心の苦しさの解決につながることは、まず、ありません。

やがて、「何をしても心を楽にすることが出来ない」と行き詰ってしまいます。

そして、執着を生み出す

この行き詰ったとき、「わらをもつかむ」心境になっています。

そんな中で「原因や解決策だと思えること」をやっとの思いで見つければ、それらを容易には手放せない気持ちは理解できると思います。

このような流れで、慢性的な心の苦しさを放置すると、解決策や原因への執着とへとつながっていくのです。

「執着」が人を苦しめる

たとえ、それが『善』に分類されるような行為でも、そこに執着があれば、それは他人や自分を苦しめることにつながります。

例えば、「人に優しくしたい」ということも、それを漠然とした方向性として思っている場合は問題ないのですが、「人に優しくしなければならない」というようにこだわっている場合は問題が生じます。

「優しさ」の為に、自分や他人に「やりたくもないこと」をするように強いることにつながり、自分や他人を苦しめます。

そして、やりたくもないことをやってあげているのに、相手がありがたがらないと、その相手を責めることにもつながるのです。

「執着」が行動を引き起こす

例えば、「自殺したい」という気持ちは、「苦しい、楽になりたい」という気持ちと「自殺すれば楽になるかもしれない」という解決策(案)が合わさったものです。

「何かを破壊したい」という気持ちも、「苦しい、楽になりたい」という気持ちと「破壊すれば楽になるかもしれない」という解決策(案)が合わさったものです。

この解決策(案)への執着が、やがて、その行動を引き起こすことにつながるのです。

一線を越える

この執着には、善悪の境を飛び越える可能性が秘められていますが、それでも、人は③の力で踏ん張ろうとします。

そして、その踏ん張りが限界を超えたとき、人は、一線を越えてしまうのだろうと思います。

また、そんな踏ん張りの中で、その踏ん張りを緩めるような刺激を受けたとき(これは、恐怖心を弱めるような刺激だと思います)、一線を越えてしまうことにつながったりするのだろうと思います。

硫化水素による自殺は、その行為自体には、何の恐怖も伴わない「薬品を混ぜる」という行動なので、恐怖心を伴わない為に、去年1年間で1000人を超える事態につながったのだろうと思います。

また、誰かが自分が考えていたことと同じ行動をしたということを知ることも、善人ではなくなる恐怖心を緩めることにつながるのではないかと思います。

テレビなどで流されるニュースは、そんな刺激でいっぱいです。

結論

  • 心の苦しさを放置すると慢性的な心の苦しさを抱え込むことにつながる
  • 慢性的な心の苦しさを長期間抱え込んだままにしていると、原因や解決方法や解決のイメージに執着するようになる
  • 原因や解決方法や解決のイメージへの執着が、更に自分や他人を苦しめ追い詰める
  • 原因や解決方法や解決のイメージへの執着がエスカレートし、やがて、犯罪や自殺を引き起こす

これらの流れは、心を楽になる方法が分かっていたら断ち切ることが出来ます。

その方法はとても簡単なことです。

誰かに苦しい気持ちを話してじっくりと聴いてもらったり、誰かに見守られながら泣けば、スッキリするのです。

それだけのことなのです。『それ以外の方法』ばかりを考えるから、ややこしくなってしまうのです。

誰かに苦しい気持ちを話してじっくりと聴いてもらったり、誰かに見守られながら泣けば、スッキリして、余計な解決策(案)を考える必要はなくなるのです。


【関連ページ】

罪と罰(4) 加害者と被害者や被害者の家族にとっての本当の解決とは

現在の法律や制度では、『罰(懲役、罰金など)を重くする』という可能性を探るしか、このようなことに対処する方法はありません。
(このようなことに対処するとは、『気持ちが治まらない事態に、何とか気持ちを治めようと対処する』ということです。)


しかし、仮に、加害者が極刑になったとしても、被害者や遺族の気持ちは、たぶん、救われることは少ないのかもしれないと想像するのです。

もしかしたら、憎む相手がいなくなることで、気持ちのやり場が無くなってしまい、対処できなくなるかもしれないという心配もあるような気もします。

で、いきなりですが、こうすれば良いのではないかと考えた結論を書きます。

ポイントは『許す』ということではないかと思うのです。

ただ、一方的に許すということではありません。
  • 被害者や被害者家族の気持ちが、加害者に伝わる
  • 被害者や被害者家族が、自分達の悲しみや苦しみなどの気持ちを、加害者が受け止めたと感じることができる
  • 加害者が心から悔い改め、被害者や被害者家族に心から詫びる気持ちを伝える
  • 加害者が自分の罪を認めて心から後悔し詫びていると、被害者や被害者家族が感じることができる
  • その後、刑法に従って、罪を償う

という流れで対処するということです。


罰だけでは誰も救われず、お互いの気持ちをぶつけ合って初めて、お互いの気持ちが救われる可能性が生まれるのではないかと思うのです。

その上で、その後の事件や事故を防止する為に、更なる抑止力が必要となれば、罰の内容を厳しくすることを検討すれば良いのだと思います。

これを実際に運用することは容易な事ではないかもしれませんが、このようなことを意識しておくことは大事だと思います。


以前、劇場版「HIRO」という木村拓也が主演の映画を観ました。

HERO 特別編 [DVD]


その中の裁判のシーンで、木村拓也が演じる久利生公平のセリフがとても印象的でした。印象的だった割には、その言葉を正確には覚えてませんが・・・。(汗)

大体、次のような事だったと思います。

  • 裁判での検事の役割は、被告人に、被告人が行なった罪の重さを理解させること

実際の裁判がどのように行なわれているのかは、傍聴したことが無いので分からないのですが、大切なことだと思いました。


繰り返しますが、刑罰を重くするのは、抑止力の強化にはなると思いますが、それだけでは、誰も救われないのではないかと思うのです。

2009年3月1日日曜日

「知っていること」と「経験すること」

私は、「小西克哉・松本ともこ ストリーム」というサイトからブロードバンド配信?されている『コラムの花道』という番組が好きで、ちょくちょく聴いています。

http://www.tbs.co.jp/radio/st/

先日、佐藤優さんという方が話している回がありました。

http://www.tbsradio.jp/st/special/#a021650

話はとても興味深く、刺激的でした。

その中で、最近出版された本について熱く語られている場面がありました。

2冊構成の本を出版するとき、
  • 上巻・下巻というようにすると、下巻は上巻の半分しか売れない
  • 1冊目を「○○○」、2冊目を「続○○○」としても同じ。(「続○○○」は1冊目の半分しか売れない)
  • 1部・2部としても同じ。
などなど。


そこで、どうされたかというと、『左巻』『右巻』とされたそうです。

「ふーん、そんなものなのかなぁ~」

その時は、そのくらいにしか思いませんでした。

その後日、そんな話はすっかり忘れて、本屋に立ち寄ったとき、たまたまその人の本が並んでいることに気が付きました。

「あっ、あの人の本だ!」

先日配信されていた番組での話がとても興味深かったので、ちょっとひかれて目次をパラパラと見ました。

そこに、『秋葉原の事件』に関係する項目を見つけて、「私が将来解決したいと思っている心の闇の部分に、この人はどのような考えを持っているのだろう!?」と思い、そのまま、レジにその本を持っていき、購入することにしました。

長くなりましたが、ここまでが前置きです。


さて、帰りの電車、運良く座席に座ることが出来て、その本を読もうと、本屋さんが入れてくれた袋をとめているセロハンテープをはがしました。

「さっ、どんなこと書いてるかな・・・」

『秋葉原の事件』に関する内容がとても気になりながら、本を手にしました。

おもて表紙をめくって、中表紙というのでしょうか、本の1ページ目のタイトルを見て、佐藤さんが番組で熱く語っていたことの意味を、身をもって理解することになりました。

そこには、『テロリズムの罠 左巻』と書かれていました。

「左巻!?」

「あっ、これか! あの時言ってた『左巻』・『右巻』というのは・・」

「ところで、これって、どういう意味?」

「左巻と右巻とどちらが1巻目?」

「日本人だから右を『はじめ』と考えるのかな?それとも、左が1巻目かな??」

自分が買った本が1巻目かどうかが、とても気になったのです。

どうしても、1巻目から読みたいような衝動が涌いてくるのです。


少し話が逸れます。

私は、そのことに電車の中で気付いたので、その「もう片方の本も買いたい!」という激しい衝動をかろうじて抑えることが出来ました。

でも、もし、本 屋さんでこのことに気付いていたら、恐らく、『右巻』も買ってしまっただろうという気がします。

そして、きっと、思っただろうと想像します。「2冊並べて みても、やっぱり、どっちが、1巻目か分からない・・・」と。


話を戻します。


「やられた!」と心で思いながら、こみ上げてくる笑いをこらえながら、ニヤニヤとするしかありませんでした。

もし、私の前に立っていた人が、私のニヤニヤに気づいて、私の視線の先にある本を覗き込んでいたとしたら・・・。

たぶん「変な人だ」と思うのだろうな・・・

なぜなら、そこには、『テロリズムの罠』と書かれているだけなのですから!

たぶん、見た人は『左巻』という文字は強調はされていないので、パッと見ただけでは気にならないだろうと思います。
(でも、気付かないとは限りません。これで、その人が「左巻!?」なんて思っていたら思う壺、『左巻』・『右巻』は、ほんとうにすごい仕掛です。)


そんなことを考えると余計にニヤニヤしまいます。

誰かに話せば楽になるのでしょうが、一人で電車に乗っていた私は、

湧き上がる楽しさを抑えるのが大変でした。

客観的には、あの状態を「抑えられていない」というのかもしれません。


で、電車の中で拷問に似た時間を耐えた後、ようやく家にたどり着いた私は、『左巻』・『右巻』について、妻に熱く語ったのでした。

結局、気になる部分を読んだのは、数日経ってからでした(苦笑)

興味がある方は、どちらか一冊だけ手にとってみて下さい。

きっと、同じような気持ちになると思います(笑)


 


で、実は、これも前置きだったりします。


「自分の心の苦しさの解決」についても同じようなことが言えると思います。


「心について知識として理解していること、そして、一人でそれに取り組むこと」と、「カウンセラーやサポーターのような人と関わりながらそれに取り組むこと」


〔参考〕

サポーターについては、次のページを参考にして下さい。


■メルマガバックナンバー:苦しさの中で人に自然に生じる行動や症状は、心理療法と同じところがある

http://www.pureheart-counseling.com/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%AC...

この違いは、経験してみないと分からないと思います。

一人で悩みこむ傾向のある方は、是非、身近な「気持ちを聴いてくれる人」に相談してみて欲しいと思います。


余談です。

インターネットでクリックすればいつでも聞くことができるので、放送時間に制約されることがない為、録画や録音などを予約する必要が無く、思いついたらいつでも聞けるというのが、とても良いです。

私が、この番組を好きな理由は、人の話を一つの流れとして聞けることです。

テレビのドキュメンタリー番組は、基本的には編集されており、出演者の考えというよりは、製作者の意図を聞かされているように感じてしまいます。

勉強にはなるのですが、出演者の本音が隠されているように感じて、私には、なんとなく物足りなさを感じることが多くあります。

また、意見を出し合うような番組は、多くの評論家が好き勝手に部分的なことを話して終わってしまうので、その人の言っていることに筋が通っているのかどうかを確認することが出来ません。


ニュースのキャスターなどが話す言葉も、意味ありげなのですが、断片的でどこまでのことを考えて話しているのかを知ることが出来ません。

そんなことで、知識を持っていると思える人の考えを、話し手の気持ちの流れに沿って、じっくり一部始終聞くということに飢えていました。

そんな私の不満感を満たしてくれる番組です。

話される内容に共感できるかどうかは別にして、人の考えをじっくり聞くということは、おもしろいと感じさせてくれます。

人付き合いが苦手な人は、苦手な相手の話を聞きだすインタビュアーになったつもりで、その人の話を一部始終聞き出そうとすると、いろんな人に興味を持てて、「知らぬ間に人好きになってしまっていた」、なんてことになるかももしれませんよ!